母が死んでから、ちょうど一ヶ月が過ぎた。
指輪、時計、セーターにスカート、母の形見のコートまで売り尽くして、もうレニーには今着ている服しか残っていなかった。
見るに見かねたのだろう、隣りの部屋に下宿しているゴールドマン老人が、亡命ユダヤ人親睦会の集まりに紹介してくれたが、ここでもレニーは、片隅の擦り切れた椅子に小さくなって座って、人々の呟きに似た愚痴を黙って聞くばかりだった。
狭い部屋は、人生の縮図と言ってよかった。 中年の夫婦、しょっちゅう口を動かして過去の思い出に浸っている老女、子供連れの途方にくれた若い女性――しかし、様々な人々がぎゅう詰めになった部屋の中では、無気力と諦めだけでなく、ぎりぎり追いつめられた人間の知恵と、切羽詰った情報のやり取りも行なわれていた。
そばに人間の暖かみがあるだけでもありがたかった。 レニーが無言で、聞くともなく耳を傾けていると、不意に場違いな大声が、沈んだ部屋の空気を乱した。
開いた扉を何気なく見上げたレニーの目が一瞬ぼんやりとなり、ついでその日初めて生命の輝きを見せた。 その様子を横で見ていた未亡人のクリスタが、眉をしかめて囁いた。
「あの男はだめ。 札付きよ。 見かけに騙されたら、とんでもないことになるわ」
クリスタの声はちゃんと耳に入っていながら、レニーの視線はじっと、入ってきたばかりの金髪の青年を追っていた。
美しい。 ここにヒットラーがいたら、抱きついて頬にキスしたくなるほどアーリア的美しさだ。 だが、皮肉なことに、この天使のような青年はユダヤ人なのだ。
クリスタの囁きは続いた。
「あいつはどんなことでもするのよ。 盗み、詐欺、脅し。 特にうまいのは口で、信じられないことに、仲間のユダヤ人からまで嘘をついて金を巻き上げたのよ。
でも見かけがあれでしょう? とてもうまく立ち回って、いい暮らしをしてるわ。 最低の奴、ハイエナよ」
自分がどんな目で見られているかを知ってか知らずか、青年はまた場違いな大声を出して笑った。 酔っているらしい。 目が少し血走って、頬が赤らんでいた。
見つめているレニーと視線が合うと、彼はウィンクして、にやっと笑った。 レニーの口の端が震えた。
似ている…… 酔ったときの感じはそっくりだ。 よく見れば、ロルフとは違う顔立ちなのだが、かもし出す雰囲気が同じだった。
ロルフ・シュタインホッファーは、レニーの幼なじみだった。 小さいときからきれいな子で、礼儀正しく、レニーの両親のお気に入りだった……
レニーは一生一度の勇気を振り絞り、青年の目を捉えたまま、ほほえみ返した。 相当ぎこちない微笑だと自分でも思ったが、青年はいかにも、きっかけをもらったという感じで、人々の膝をかき分けてレニーに近づき、隣りにどっかりと座りこんだ。
クリスタは、警戒するようにと横目で合図したが、レニーは敢えて無視した。
「やあ」
と、少しかすれた声で青年は話しかけてきた。
「こんなかび臭いところで何をしてるんだい? 君みたいな若い子には似合わないよ、なあ……」
そこで少し言いよどんで、
「あったかいものでも食べに行かないか?」
暖かい食事――文字通り、それが一番の『餌』だった。 何百、何千の娘たちが食料につられて身を売る時代だ。 レニーの場合はちょっと事情が違ったが、今夜娘時代に別れを告げると決意している点では、飢えた女の子たちと変わりはなかった。
青年がレニーを連れていったのは、場末の小さな食堂だった。 あかぎれで手を真っ赤に腫らしたウェイトレスが、青年を見たとたん眼をきらきらさせて飛んできたが、若い女の連れを見て、足が止まり、ふくれ面になった。
青年は笑顔でウェイトレスの肩を抱き、5分ほど裏の廊下に入りこんだ。 出てきたとき、彼女の頬が手と同じぐらい赤くなっていたところを見ると、キスと甘い言葉でうまく機嫌を取ったのだろう。 ウェイトレスはレニーにも愛想よく歯を見せて、たっぷり盛ったザワークラウトとあつあつのシチューを持ってきてくれた。
ナプキンをきちんと膝に置き、上品に食べるレニーを、青年は時々ちらちらと眺めた。 なに気取ってるんだ、という視線にも、ここまで虚勢を張れるとはいい根性だ、という密かな驚きにも取れる態度だった。
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