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Chapter 9


 帽子を脱いで、椅子の上に投げながら、ド・レックレが言った。
「銃士隊のアレス、覚えているだろう? 小隊長になったそうだ」
  刺繍をしていたエルミーヌの手が一瞬止まったが、すぐにまた動き出した。
「そうですか」
「めでたいが、前のように気軽に護衛を頼むわけにいかなくなったな」
  エルミーヌはうなずいた。 その顔色を見て、男爵は心配になった。
「最近元気がないな。 町は黄金色の落ち葉で、輝くように美しいよ。 また芝居見物にでも出てみないか?」
  「いいえ、今日は頭痛がするので」
  男爵はあわてて彼女の手を取った。
  「なぜそれを早く言わない。 ひどくなったら大変だ。 すぐ横になりなさい」
  顔をそむけて、エルミーヌは喉に詰まった声を出した。
「どうしてそう優しくしてくださるの? 私はあなたを裏切った女なのに」
  小さな両手を重ねて持ち、ド・レックレはささやくように言った。
「あれっきりだ。 そうだろう? 君を襲って心まで奪った悪党は、あれから一度も来ていないはずだ」
  エルミーヌは眼を閉じた。 ド・レックレは握った手を強く揺すぶった。
「まだ好きなのか? 思い切れないのか?」
  つぶった眼から、一筋の涙が流れ出した。 それを見た男爵は、ふるえる息を吸い込んだ。
「なぜなんだ。 顔の美しさがそんなに大切なのか?」
「いいえ」
  思わず口走って、エルミーヌははっとした。 男爵の目がきらめいた。
「顔ではないのか? ではその男のどこに惹かれたというんだ?」
「やめてください」
  立ち上がって逃れようとする彼女を、男爵は追った。
「体か? どうなんだ」
「そうかもしれません」
  濁った声で、エルミーヌは叫んだ。
「向こうもそうなのかも…… いえ、きっとそうです」
「そんな相手をなぜ愛せる!」
  男爵の声が割れた。
「君は本当のことを話していない。 会った初めからずっとそうだ」
「話せるならとっくに話しています!」
  エルミーヌの顔がくしゃくしゃになった。
「あの日に助けなければよかったんです。 死なせておいてくだされば……!」
  手を離すと、ド・レックレは窓辺によろめいていって、ガラスに額を押し付けた。


 小隊長になって割り当てられた部屋の壁に上着をかけて、アレスは椅子に座り、書き物を始めた。 だが数行も書かないうちにドアをノックされ、わずかに眉をひそめて立ち上がった。
  扉を開くと、横の壁にステファーヌ・ド・レックレが寄りかかっているのが見えた。 珍しく酔っているようだ。 アレスを見ると、顔を緩めてだらしなく笑った。
「やあ、出世おめでとう。 祝おう。 おごるよ」
「ありがたいですが、もう相当できあがっておられるようだ」
「ちょっと飲んだだけだ。 さあ,坊主くさく書き物なんぞしないで、出かけよう!」
  苦笑して、アレスは上着をまた羽織り、ドアを閉めた。

  寒い晩だったので、暖かいものを出す酒場はにぎわっていた。 陽気な笑い声や乾杯の音頭がこだまする建物の中で、2人は端の方に席を探し当てて座った。 アレスが帽子を取ったとたんにウェイトレスが飛んでくるのはいつものことで、そのため彼と酒を酌み交わす者はあまり待たされないですむのだった。
  盃をぐっと空けると、男爵はふところに手を入れて小さな箱を取り出し、アレスに中身を見せた。 それは見事なサファイアの指輪だった。
  じっとその指輪に見入りながら、男爵は言った。
「彼女の目の色に合わせたのだが、気に入ってくれると思うか?」
「その美しさなら、どんな女性も」
  アレスは礼儀正しく答えた。 男爵の指が、固く箱を握りしめた。
「いや、だめだ。 エルミーヌは何も欲しがらない。 感謝してくれるが、それだけだ。 幸福にはできない」
  アレスは黙っていた。 男爵は指輪をまたふところへ入れ、つぶやいた。
「彼女の身元を知る手立てが何かないものか。 まるで空から落ちてきたように、夜たった一人で『青い狐』という旅籠に入ってきたそうだ。 わかるのはそれだけだ。 信じられるか?」
  無言のまま、アレスは盃を飲み干した。
「持ち物は男物のマントと、わずかな金だけ。 ほとんど食べも飲みもせず、3日間部屋に閉じこもった末に、裏のエシャンの森で首を吊った」
  アレスの手から盃が転げ落ちて、石の床で大きな音を立てた。 硬直した青年を見て、ド・レックレは小さく笑った。
「君でも驚くことがあるのだな。 初めて見たよ。
  そうなんだ。 わたしが旅の帰りに森を通りかかったとき、もう夕暮れだったが、木の枝に何かが引っかかっているのが見えて、密猟者の処刑にしては妙だと思い、近寄ったのだ。 女だとわかって仰天して抱き下ろした。
  初めは誰かに殺されかかったのかと思ったが、すぐにそうでないのがわかった。 息を吹き返して、薄闇の中でわたしを見たとき、枯れて出ない声をしぼり出して言ったからだ。
  今も一言一句たがえずに覚えている。
『ああ、神様! 生きていたのね。 私のせいで殺されたのではなかったのね』
 そう彼女は言った。  それから手を精一杯伸ばしてわたしに抱きついた。
  そのとたんに人違いに気付いたらしい。 かすれた悲鳴を上げて気を失った」
  ゆっくりとアレスはテーブルに手を置いた。 長い指の押さえきれない震えにあわせて小さく音が響いた。
「何度も考え、推理してみた。 おそらく命がけで駆け落ちしようとしたのだろう。 だが、待ち合わせ場所に男は来なかったのだ。 それにしても、近所の人間が誰も彼女を見知っていないというのは、まったく不思議な話だ。 そう思わないか?
  助けてから1月は、死んだも同じだった。 人形のようにじっとしていて、食事も口まで運ばないと食べない。 小間使いのソフィがずっと子供のように面倒を見た。 まずソフィに心を開いてぽつりぽつりと話すようになって、それからやっとわたしを怖がらなくなったのだ。 なのに、どうして……!」
  ド・レックレの若々しい顔が、ぎゅっと引き締まった。 ドンと音を立ててテーブルを殴ると、彼はお代わりを注文し、再び一息で飲み下した。
「悪い男に魅入られた。 ソフィによると、またとないほどの悪党だそうだ。 もしかすると死んだ恋人に似ているのかもしれないが、エルミーヌがそいつを本当に愛しているのか、それともやけになって身を滅ぼしたいのか、判断がつかない。 だが、どちらにしろ、そいつが今度わたしの前に現れたら、絶対に生かしてはおかない!」



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