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Chapter 10


 そのあと半時ほど飲みつづけて、ド・レックレはすっかりつぶれてしまった。 彼を馬に担ぎあげ、アレスはサンベルナール通りまでゆっくり運んでいった。
  戸口の前まで来ると、アレスは自分の馬から下り、次いで男爵を抱き下ろした。 目を覚ました男爵は、瞼をこすりながら壁に寄りかかり、あくびをした。
  アレスは扉に近寄り、静かにノックした。
  軽い足音が近づいてきて、ドアが開いた。 蝋燭を手にしたソフィが顔を出した。 と同時に腰を抜かして、廊下に尻餅をついてしまった。
  手を伸ばすと、アレスは彼女の腕を取って引き起こし、妙にはっきりした声で言った。
「久しぶりだな」
  ソフィはしばらく声が出せずに口をぱくぱくさせていたが、ようやく悲鳴に似た声で小さく叫んだ。
「ころ……殺さないで! 後生だから!」
  壁にもたれてふらふらしていた男爵が、眼をかっと見開いた。 暗がりから歩み出てきた主人を見て、ソフィは飛び上がってしがみついた。
「この人です! この人が忍び込んで奥様を!」
  少しの間、事情が飲みこめない上に、どうしても信じられなくて、ド・レックレは瞬きを忘れてアレスを見つめ続けた。
  それから、はっと息を吐き、剣を抜いた。
  アレスは動かなかった。 素手のまま、じっと男爵を見返していた。 酒のせいで狙いが定まらない男爵は、何度も剣を持ち直し、荒い息をついて繰りだそうとした。
  そのとき、雪の塊のようなものが視界を横切り、剣の前に立ちふさがった。 それは、白く長い寝間着の裾を引いたエルミーヌだった。
「やめて」
  両手を広げてアレスを背後に庇いながら、エルミーヌはささやいた。
「お願い。 この人に手を触れないで。 なんでもします。 だから……」
「どけ!」
  男爵は濁った声を出し、彼女の肩を掴んで払いのけようとした。 エルミーヌは身をひるがえして、いきなり剣の中頃を握ってしまった。 血が流れ出て、白い手首を伝った。
「ポーレット!」
  それまで彫像のようにまったく動かなかったアレスが、息を吹き返した。 男爵を突きのけるなり、彼女の手を掴んで、固く握りしめた指を一本一本広げていった。
  道路の端まではじき飛ばされたド・レックレは、茫然とつぶやいた。
「ポーレット……?」
  首からスカーフを外して、アレスはポーレットの手を器用に巻いていった。 彼女は幼児のようにされるままになっていた。 剣は忘れられ、二人の間に転がっていた。

 彼がスカーフを結び終わると、ポーレットは顔を上げて言った。
「行って! 私と一緒のところを見られたら、いえ、私が生きていることがわかったら、あなたの命さえ危うくなるわ。 もう私には構わないで。 あなたは出世して、後ろ盾ができた。 だから堂々と、日の当たる場所を歩いて」
  彼はゆっくりポーレットの傷ついていないほうの手を持ち上げ、口づけしてからそっと握りしめた。
「もう心配はなくなったんだ、ポーレット。 黒幕は殺した」
  ポーレットの眼が大きく広がった。 アレスは微笑してうなずいてみせた。
「ラ・ロシェルで手下を使って僕を暗殺しようとしたから、宿を突き止めて一刺しにしてやった」
「パトリス!」
「大丈夫だ。 あいつが消えてイエズス会はほっとしている。 その証拠に僕を小隊長に抜擢した。 代わりにすべてを闇に葬る約束をさせられたよ」
「そうだったの……」
  ポーレットは顔をあお向けて、思い切り深く息を吸った。 追っ手がかかり再び捕らえられる悪夢を何度見たことか。 やっと自由になれた。 自由に……
  よろめく足を踏みしめて、2歩,3歩と2人に歩み寄ると、ド・レックレ男爵は濁った声で言った。
「アレス、いや、パトリスか…… いったい君の正体は何なんだ!」
  アレスは深い眼で、青年貴族を見返した。
「パトリス・マリー・デュラン。 ブルゴーニュの貧乏貴族の三男です。 口減らしに陶工の元へ弟子入りしに行く途中で追いはぎに捕まって売られ、悪事の手先を強いられていました」
  男爵の視線は次に、エルミーヌと名乗った娘に移った。 ポーレットは疲れきって、パトリスの肩に寄りかかっていた。 それでも努力の末、弱々しく声を出した。
「私はトゥールーズの織物商の娘で、ポーレット・クレミオーというのが本当の名前です。 伯父と一緒にモン・サン・ミシェルに参詣した帰りに、さらわれました」
  ポーレットの髪を撫でながら、パトリスは静かに言葉を継いだ。
「事実は人さらいではなく、人買いです。 彼女の伯父が金に目がくらんで、悪魔に売ったのです。 その悪魔は奴隷売買で作った金で僧職を買い、権力を得て、さらに悪事をくりかえしていました。
  わたしはそのおぞましい行為の手伝いをさせられて、毎日闇の世界にどっぷりつかり、感情も気力も失っていました。 でも、この人が光をくれました。 さらわれた子たちの中でたった一人、わたしのために祈ってくれたのです。
  ソフィの言うとおり、わたしは悪党です。 だが、この人の幸福だけは心から願っています。 どこにいても、何をしていても」
  そう言い残すと、パトリスはそっとポーレットの手をほどいて、馬に向かって歩き出した。 あまりの辛さにポーレットは拳を噛み、泣き声を漏らすまいとした。 追っていきたいのにどうしても行けないその姿を見て、ド・レックレは胸がきりきりと痛むのを感じた。

  そのとき、それまで無言で、存在さえ忘れられていたソフィが不意に動き、パトリスの前に立ちふさがった。 驚いて、彼は足を止めた。
  固い表情で青年をじっと見つめ、ソフィは詰問調で言った。
「じゃあ、あんたがマダムの救い主なのね。 地獄から逃がしてくれた殉教者ってわけね」
  パトリスの石のような表情がわずかに動いた。 ソフィはふくれっ面で続けた。
「でも本当は、自分が逃げたくてマダムをだしにしたんじゃない? その証拠にぴんぴんして生きてるじゃないの」
「ソフィ!」
  ポーレットが鋭く叫んだ。 同時にパトリスの腕が伸びてソフィを掴み、押し殺した声が空気を揺すぶった。
「おまえに俺の何がわかる! 馬車を手配して南に行かせて、3日間時間稼ぎをしたんだぞ。 貴重な3日間だ。 その間ずっと逃げ回りつづけて、最後に海岸の崖から藁人形を落とし、追いつめられた彼女が自殺したと装った。 一緒に飛び込もうかと思ったが、あいつと刺し違えるほうがいいと決め、もう少しで成功しかけた。 だがあの卑怯者は犬を放して俺を追いつめ、短剣でめった刺しにして海に投げ込んだ」
  ポーレットは気絶しそうになってよろめいた。
「パトリス……ああ、パトリス!」
「漁師の網にかかって引き上げられたらしい。 立てるまでに1ヶ月かかった。 彼女のことが気がかりで、這うようにして『青い狐』に行くと、若い騎士と連れ立ってパリに行ったと知らされた」
  激しい嗚咽の発作で、ポーレットは目が見えなくなった。 パトリスはソフィを突き放し、馬の手綱を手に取った。
  同時に、ポーレットが動いた。 男爵の前に走りより、ひざまずいて深く頭を垂れた。
  「感謝しています。 これからも一生感謝しつづけます。 でも、愛することはできません。 このひとのようには……」
  男爵は無言で彼女を見つめていた。 ポーレットの体が木の葉のように震えた。
「パトリスが生きて同じパリにいると知ったときから、毎日毎日願いました。 飛んでいきたい、共に暮らしたいと。 でも彼はこんなに美しく、慕う女性たちが街にあふれていました。 もう私の出る幕はないと、そう思ったのです。
  恐ろしいことを神に願いさえしました。 彼が負傷して醜くなればいい、そして私一人のものにできたらと……」
  パトリスの表情が初めて大きく動いた。 青白い顔が上気し、眼が星のように輝いた。
  その変化を認めた男爵は、すべてが終わったことを認めないわけにはいかなくなった。 彼は咳払いし、やけっぱちに近い明るい調子で青年に言った。
「君は彼女を追ってパリに来たんだな。 偽名は使ったが、目立ちすぎるその容姿のせいで非常に危険なのはわかっていたはずだ。 それでも君は派手に決闘騒ぎを起こした。 見つけてほしかったんだな、彼女に。
  その証拠に、君は他の女性にはまったく見向きもしなかった」
  ちらっとソフィを眺めて、パトリスは答えた。
「意志の力で禁欲しているわけではないのです。 13で誘拐され、悪魔の所業を見せつけられているうちに、愛せなくなったのです。 わたしがこれまでの生涯で腕に抱いたのは、抱きたいと思ったのは、ポーレットだけです」
  重い沈黙が広がった。 聞こえるのは時折吹き過ぎる風の音と、ポーレットの嗚咽だけだった。
  やがて男爵が疲れた様子でつぶやいた。
「一緒に行きたいのだろう? 連れていけ。 パリ一番の美男子と張り合う気はないと、前にも言ったはずだ」
  パトリスの体がぶるっと震えた。 一瞬ド・レックレに眼をやってから、彼はひたすらポーレットを見つめ、ゆっくり腕を差し出した。
  ポーレットはパトリスを見て、それからソフィを見た。 ソフィはそっぽを向いて口をとがらせていたが、ポーレットにはわかっていた。 わざとパトリスを挑発して本音を語らせてくれたのだということを。
  言いたいことが胸にあふれていたが、口にしてはならないことだった。 ポーレットは躍るように立ち上がって、パトリスめがけて走った。 体全部で受け止めて頬ずりすると、バトリスは彼女を軽々と持ち上げて馬に押し上げ、自分も飛び乗った。 彼が帽子を取って一礼し、暗闇の中に消えていくのを、男爵は黙って見送った。


〔完〕









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