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Chapter 7


 第2の刺客が家の近くで待ち伏せしている可能性は大だった。 アレスは途中で馬車の向きを変え、フォセットの女子修道院の扉を叩いた。 そしてエルミーヌを預けた後、改めてサンベルナール通りへ馬車を走らせた。
  家の前に男が立っていたので,アレスは一瞬緊張したが、すぐにレックレ男爵が心配でたまらなくて待っていたのだと知り、急いで近寄った。
  アレスが一人なのを見て、男爵は青くなった。
「おい!」
「マダムは無事です。 フォセットの女子修道院に一晩預かってもらいました」
  ほっとして、ド・レックレは家の壁に寄りかかった。
「ああ、寿命が縮んだ」
「そんなに大事なら、どうしてこんな危険な役目を?」
  男爵は、ちょっと驚いてアレスを見返した。 これまで任務には忠実だが何事にも無関心だったアレスが、初めて口にした個人的疑問だった。
「やらせたくはなかったが、他に信用できる女性を知らないので」
「わたしなら愛人など信用しません。 妻なら別ですが」
  辛辣な言葉に、男爵はもっと驚いた。
「エルミーヌは妻も同じだ。 実を言うと、何回も求婚しているのだ。 だがどうしても承知してくれない」
  アレスは黙った。 かすかに顔が紅潮した。

  彼がマントを脱ぎ出したので、男爵も気付いて帽子を取った。 再び服を交換し、手紙を受け取りながら、ド・レックレは言った。
「信用できると言えば、君はまったくもって信頼に値する男だ。 また何かあったら頼む」
  無言のまま、アレスは頭を下げた。


  返書は無事、海を渡った。 だが時の宰相ロッキンガムがその手紙を読んだかどうかは永遠の謎となった。 翌日の午後、公爵が反政府主義者に刺殺されたという知らせが、ヨーロッパ中を駆けめぐった。

  フランスの宮廷は、イギリスとの関係よりもむしろ、国内の新教徒との勢力争いに頭を痛めていた。 4月に新教徒の裕福な商人たちが暮らす町、ラ・ロシェルで反乱が起きたので、軍隊が差し向けられることになった。
  近衛連隊も参加すると決まった。 騒がしく出発準備をしていた銃士たちは、やがて櫛の歯が欠けるように宿舎から見えなくなった。 恋人や愛人、家族に別れを告げに行ったのだ。 そういう者に恵まれない連中は、これで命が尽きるかもしれないからと、最後のお楽しみに酒場へと出かけた。
   アレスも馬に乗って、あてもなく外に出た。 自然にその足は、サンベルナール通りに向かった。 ただ家の前を行き過ぎるつもりだったのだが、つい立ち止まって暗い窓を見上げていると、不意にかすかにきしむ音がして、その窓が開いた。
  夜目にも白い顔が、身を乗り出して青年を見た。
  2人はじっと見つめ合った。 やがて彼女が両腕を指し伸ばすのが見えた。 その姿が目に入ったとたん、彼は大きな猫のように身軽に屋根に飛び乗り、庇を伝って窓からするりと飛び込んだ。 静かに窓が閉まった。
 
  薄暗い部屋で、2人は蔦のようにからみあい、激しく口づけし合った。 彼女はあえぎながら、自ら着衣を脱ぎ捨てた。 白い夜着が床に落ち、襞になって広がった。 その上に彼の服が重なり、2人は生まれたままの姿でベッドに倒れた。

  戸の開く遠い音、小さな声での会話、それに続く足音に、最初に気付いたのは彼女の方だった。 素早く青年を揺り起こすと、彼女は短くささやいた。
「男爵が……」
  彼はすぐさまベッドから飛び降り、あっという間に服をまとった。 剣に手がかかるかかからないかのとき、ドアが勢いよく開いた。
  幸い、隣りの小間使い部屋でも、気配を消すために灯を消したらしい。 寝室はほぼ真っ暗で、人影が灰色の影に見えるだけだった。
  羽根のついた帽子をゆっくり眉の上まで引きおろすと、アレスは剣を左から右に持ち替えた。 半月の弱い光が反射して、刀身がかすかにきらめいた。
  そのまま彼は剣を横に動かし、ぴたりとエルミーヌの喉に当てた。 男爵の足が、吸い付けられたように止まった。
  甲高いしわがれた声を作って、青年はくすくすと笑った。
「また頂きに伺ったよ。 とびっきりの美人だからな」
  歯ぎしりして、男爵は一歩踏み出した。 だが、剣の先が鋭く動いたので、あわてて動きを止めた。
  油断なく身構えながら、青年はじりじりと後退し、窓枠に手をかけるなり、ひょいと飛び越えて見えなくなった。
  男爵は、猛犬のようにあえぎながら窓に突進した。 だが、下の道は眠るように静かで、見渡す限り誰もいなかった。
  立ち尽くしたまま、レックレはつぶやいた。
「あれが、パトリスなのか?」
  電流が走ったように、エルミーヌの肩が震えた。 男爵は、活気を失った声で続けた。
「君はほとんど常にソフィの目の届くところにいる。 だが一度だけ、あの子を2日間故郷に返したことがある。 わたしがローマに行っていたときだ。 その間、何をしていた?」
  エルミーヌは答えなかった。 男爵は溜め息をつき、ゆっくりとベッドに近づいて、エルミーヌの隣りに腰を下ろした。
「あの窓から見下ろしたとき、眼が合ったのか? もしかしてその相手は、背丈はちょうどわたしぐらい、年恰好もだいたい同じような、青い眼の、はっとするような美男子ではないだろうな」
  エルミーヌの手がシーツをぎゅっと握った。
  男爵の声が切迫した。
「図星らしいな。 エルミーヌ、エルミーヌ! 君は若くて純情すぎる! 顔と心とが一致するとはかぎらない。 それどころか、天使の顔に悪魔が宿るなどというのは、この世ではざらにあることなんだぞ。
  その男はソフィにも近づいている。 あの子にはジャン・ルイと名乗ったそうだ。 甘い言葉をささやき、夢中にさせて、まんまと小間使い部屋に入った。 だがそのとたん本性を現してソフィを縛り上げ、続きにあるこの部屋に忍び込んだ」
  エルミーヌの胸が波打った。 これまで知らなかった事実だった。
「確かに女なら誰でもうっとりするような顔なのだろう。 口もなかなかうまいらしい。 だがその男は危険な悪党だ。 縛り方が手馴れていてとても上手で、何時間もがいても少しもゆるまなかったそうだ。 後で縛った本人がほどくまでは。
  そのときに、他言したらソフィばかりか君まで刺し殺すと脅されて、今まで誰にも話せなかったのだ。 あんな恐ろしい男に会ったことはないと言っていた」
  そっとエルミーヌの肩に手を回すと、男爵はつややかな背中に顔を伏せた。 くぐもった声が言った。
  「忘れろ。 忘れてくれ、エルミーヌ。 わたしには君が必要なんだ」
  暗がりで、エルミーヌは眼を開けていた。 その眼に涙はなかった。
 

 ラ・ロシェルの新教徒たちは勇敢で、戦いは一進一退を続けた。 敵ながらあっぱれだとアレスが思うほどだった。 だんだん夏が近づいて、兵士たちは蚊にも悩まされるようになっていて、戦意喪失は深刻な状態だった。
  「ああ、つまんねえ。 ついてきてる酒保の女共は不器量だし、ここらへんは虫が多いしよ。 おまけに同じフランス語を話す連中とドンパチやるのは、正直言って気が進まないぜ」
  レオンがさかんにぼやくのを聞き流していたアレスは、肩に手を置かれて顔を上げた。
  横に立っているのは、ド・レックレ男爵だった。 アレスはぎょっとして立ち上がった。
  男爵は、何の底意もなく微笑した。 『パトリス』が今目の前にいる男かもしれないとは、彼は露ほども疑っていなかった。
「堅苦しい礼儀はいい。 座っていてくれ。 今度ここの小隊長になったので、よろしく頼む」
  アレスは眼を見張った。
「あなたが?」
「不思議か?」
  あべこべに問い返して、ド・レックレはアレスの傍に腰を下ろした。
「実は、エルミーヌが修道院に入りたいと言い出したのだ。 いくら説得しても決心が固い。 毎日頼まれるので、やりきれなくなって逃げ出してきた」
  アレスはまっすぐ夜の暗闇を見つめていた。
「頭を冷やせば落ち着くと思う。 そうなってもらわなければ困る」
「そうですね」
  妙にしわがれた声で言うと、アレスは立ち上がり、歩き出した。
  レオンが置き忘れた酒瓶が転がっていたらしい。 とたんにつんのめって、危うく倒れるところだった。
  よろめいたとき、頭上を何かがかすめた。 同時に鈍い発射音が響いた。 人が走っていく音がして、やがてレオンが右方向から現れ、いくらか青ざめた顔で報告した。
「誰かがおまえを撃ちやがった。 敵じゃない。 追っかけていったら、リシュリューの陣屋に逃げ込んだ。 アレス,おまえよっぽど宰相殿に憎まれてるんだな」
  そうだろうか――アレスは納得がいかなかった。 たしかにリシュリューの親衛隊と小競り合いはした。 だが誰も殺してはいないし、リシュリュー自身、前に宮殿の広場でばったり会ったとき、苦笑しながら言ったのだ。
「ほんとにこしゃくな小僧だ。 トレヴィル隊長に、おまえを貸してもらえないか頼んでみよう」
  あれは、認めていても憎んではいない口調だった。



 

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