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Chapter 6


 翌日は気持ちのいい上天気だった。 男爵はさっそくエルミーヌを馬車で散歩に連れ出し、フォンテーヌブローの森の初春にしか味わえない美しさを見せ、それからゴーシュへ回って買い物をし、豪華な食事を楽しみ、満腹してレストランを出た。
  石畳の道を歩きながら、ド・レックレはエルミーヌに尋ねた。
「楽しかった?」
  エルミーヌは微笑んだ。 帽子からヴェールを垂らしてはいるが、わずかに見える顔色はよくなり、眼も輝いている。 たしかに久しぶりの散歩は気がまぎれた。
「ええ、とても」
「それはよかった」
  ほっとして、男爵はほがらかになった。
「これからもしょっちゅう出ることにしよう。 気分が晴れるよ」
  2人は練兵場近くに差しかかっていた。 ふと思いついて、男爵はエルミーヌを誘った。
「こういう男くさいところは見たことがないだろう。 知り合いがいるから入ってみよう」
  エルミーヌはたじろぎ、帽子をいっそう深く引き下ろした。 ド・レックレは笑った。
「大丈夫。 わたしがついているから」
 
  中へ入ると、かすかなざわめきと剣の音が聞こえた。 2人は音のする大きな建物に向かった。 そこでは薄着の男たちが、汗を飛び散らせて剣術の稽古中だった。
  エルミーヌは男爵の大きな背中に隠れてしまった。 ド・レックレは男たちの顔を順々に見ていき、奥のほうでひときわ激しく切り込んでいる青年の姿を見つけた。
「アレス!」
  名前を呼ばれて、アレスは剣を下ろし、他の銃士たちの間をぬって歩いてきた。 そして、頭を下げて挨拶した。
  ド・レックレは、背後に立っているエルミーヌを振り返って紹介した。
「アレスだ。 聞いたことがあるかい? パリでもっとも美しい男と言われているんだよ」
「それに一番強い男です。 決闘に負けたことがない」
  レオンが傍を通りながら叫んだ。 男爵は片眉をあげた。
「ほう、美男で強ければ、もてるのは当たり前だな」
  アレスは、まったく表情を変えなかった。 男爵はエルミーヌの手を取って唇に持っていき、明るく言った。
「この人がわたしのエルミーヌだ。 君の言ったとおりだったよ。 森からゴーシュまでいろいろ案内したら、ずいぶん元気になってくれた」
「そうですか」
  思わずエルミーヌは下を向いてしまった。 男爵は、ぴんと張った糸のような緊張をまるで感じなかったらしく、周囲をのんびりと見回した。
「ここは騒がしいな。 どこか静かなところはないか?」
  そのとき、それまで無言だったエルミーヌが、小さい声で言った。
「そんなに汗をかいたままでは風邪をひいてしまいます。 お邪魔でしょうから、もう帰りましょう」
「そうか。 そうだな。 じゃ、また会おう」
  軽く手を挙げて、男爵はエルミーヌの肩に手を回し、向きを変えた。 そのとき、カシャンという音と共に、エルミーヌのブレスレットが床に落ちた。
  エルミーヌは急いで拾おうとした。 同時にアレスも素早く身をかがめて手を伸ばした。 2人の指が触れ合い、一瞬止まった。
  ブレスレットもろともエルミーヌの手を握りしめて、アレスはなめらかに身を起こした。 一見、貴婦人にうやうやしく手を差し伸べる騎士のように。
  男爵は2人が手を握り合ったのに気づかず、エルミーヌをうながして去っていった。


 スペインをのけものにした、フランス、イギリス両国の港の関税と航行税に関する密約がまとまりそうになっていた。 だが密約なので当然危険が伴う。 正式に発表するまでは他国に知られてはならなかった。
  連絡係はド・レックレと決まっている。 しかし夜に一人で出歩けばスパイに目をつけられやすい。 それで不本意ながら、エルミーヌに重要な役を頼むことになってしまった。

 2人は立場を逆にして出発した。 エルミーヌがアンヌ王妃付きの侍女に扮装し、男爵が従者の姿で後からつき従う。 念のため、男爵はまたグレベールに依頼して、用心棒を頼んでいた。
  エルミーヌには、もうひとりの護衛の存在は知らされていなかった。 不安にさせたくないというド・レックレの配慮だったが、耳ざといエルミーヌは、宮殿近くで馬車を降りたときから人の気配を感じ取っていた。
  男爵に身を寄せて、エルミーヌは低くささやいた。
「誰かが後を尾けてきています」
  彼女の敏感さに驚きながら、ド・レックレは小声で答えた。
「万が一のときのために、護衛がついてきている。 心配ない」
  逆にエルミーヌの表情は緊張を増した。

  宮殿の裏庭へ通じる扉に達しようとしたとき、エルミーヌの足が止まった。 その勘のよさのおかげで、2人は間一髪、死をまぬがれた。
  ヒュンという不気味な風切り音と共に、細身の剣がいきなり繰り出された。  エルミーヌは飛びのき、男爵は素早く剣を抜いた。 すぐに2人の刺客が現れたが、一足速くその前に、マントをひるがえした男が飛び込んで、エルミーヌを体で庇った。
  無言の切りあいが始まった。 護衛はたちまち敵を倒し、男爵と戦っている相手に向かっていった。
  邪魔者のいなくなった男爵は、素早くエルミーヌの手を取ると、扉を開いて中に入れた。 そして、エルミーヌがあらかじめ掛け金の外してあるドアから建物に吸い込まれるのを見届けた。
  ド・レックレが振り返ると、護衛は既に刺客を2人とも片づけて、死体をセーヌ川に放り込んでいるところだった。 手伝いながら、男爵は感心した。
「さすがだ。 実戦向きのフェンシングだな」
「殺すか殺されるかですから」
  そう答えたのは、もう荒い息が収まりかけているアレスだった。
  死体の処理が終わると、アレスはまた闇に紛れようとした。 その彼を、男爵が引きとめた。
「いや、隠れるよりも、もっといいやり方がある。 エルミーヌは返書を預かってくるだろうから、帰りも狙われる危険が大きい。 我々は同じぐらいの身長だ。 マントと帽子を交換して、君がわたしになりすましてくれ。 そうすれば、彼女をすぐ脇で守れる。
  護衛として、わたしはあまり有能ではないらしい。 さっきそれを証明してしまった」
  2人は木陰に入って、上に着ているものを交換した。
  それから一刻ほども待たされただろうか。 ドアが開き、エルミーヌの若木のような姿が蝋燭の火に一瞬照らされて、消えた。
  すぐに、扉の横で男が出迎えた。 街路に一歩踏み出したとたん、エルミーヌの足が止まり、顔が上がった。 2人の目が合った。
「ド・レックレ男爵の代役として、家までお供します」
  低く言うと、アレスは肘を差し出した。 その腕に手を滑り込ませて、エルミーヌは無言のまま馬車まで歩いた。 まずエルミーヌを助け乗せてからアレスも乗り、馬車は夜の街を疾走した。

  初め、2人は言葉を交わさなかった。 しかし、暗い木立の延々と続く公園近くの道を走っているとき、エルミーヌがそっとアレスに寄りかかってささやいた。
「さっき守ってくれたのは、あなたね」
  アレスは短く答えた。
「仕事だ」
「わかっているわ」
  首を回すと、エルミーヌは彼の肩に額を載せた。
「でもあなたは、あの地獄から救ってくれた。 命の危険を冒してまで」
「やめろ」
  それは、歯の間から押し出されたあえぎだった。 エルミーヌは固く眼をつぶった。
「《青い狐》の二階の窓から夕日が沈むのを見たわ。 あなたが死んだと思った。 殺されたのだと……」
  声が嗚咽に途切れた。 男の体から次第に力が抜け、眼の奥に燃えていた闇の炎がゆっくりと消えた。
  アレスは顔をうつむけてエルミーヌの頭に口づけし、おだやかに言った。
「泣かないで。 それより、返書があるなら受け取ろう。 君が持っていては危険だ」
  懸命に泣き止もうとしながら、エルミーヌは手紙を出して、アレスに渡した。





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