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Chapter 5



 カレーの港は風が吹き抜けていて、非常に寒かった。 上等なマントを強く引き寄せて、ステファーヌ・ド・レックレは身震いした。
  こんな晩はこのような場所で人を待つより、エルミーヌの傍で暖炉の火を眺めながら酒を飲みたい。 他人の会合に立ち会うのが馬鹿らしくなって、ステファーヌは鼻をならした。
  ちょうどそのとき、すっと横に影が寄り添い、低いがはっきり聞き取れる声が言った。
「ド・レックレ殿ですか。 グレベール殿より派遣されてきたアレスです」
「アレス?」
  男爵はその通称に聞き覚えがあった。
  剣士は大きく分けて二種類いる。 地方から、身を立てようとして参加する郷士の子たちと、逆に高い身分を隠すために偽名を名乗る騎士たちだ。 アレスはギリシャの伝承にある名前だから、本名でないのはほぼ間違いないが、少なくともレックレの周囲には、彼に似た貴族はいなかった。 そもそもこの男に少しでも似ていれば大いに自慢できるが、と男爵は思った。
「そうか。 君があの有名なアレスか。 なるほど月明かりで見ても、いい男ぶりだ」
「ド・レックレ殿ほどではありません」
  アレスの答えは静かだった。 男爵は腿を叩いて笑い出した。
「わたしが? このわたしがか? 途方もないことを。 パリ一番の美男子と張り合うつもりは毛頭ない。 ところで君はいくつだ?」
「21です」
「わたしは23だ。 年の近い者同士、仲よくしよう」
  ド・レックレは屈託がなかった。 明るくて苦労知らずの青年の顔を、アレスはじっと眺めた。 そしてゆっくり一礼した。
  やがて船が着き、薄青い目をした英国外務相が降りてきた。

  外相を無事宮殿に送り届けた後、ド・レックレはアレスと共に夜の街を歩いた。
「これからどこか、麗しい乙女の元へでも行くのか?」
  ド・レックレの罪のないからかいに、アレスは淡々と応じた。
「女に興味はありません。 そのうち修道院に入りたいと思っています」
  驚いて、ド・レックレは思わず隣りを歩く彫りの深い横顔を見やった。
「興味がない? なんともったいないことだ! やさしい女の気遣いほど心に染みるものはないぞ」
  アレスの頬に、かすかな痙攣が走った。
「そういう女性をご存じなのですか?」
「まあな」
  男爵の額が曇った。
「最近元気がないのだ。 よく眼を腫らしている。 人の見ていないところで泣いているらしいのだが……」
  独り言のように呟いた後、うっかりしゃべりすぎたことに気付いて、ド・レックレは照れ笑いを浮かべ、ひょうきんに尋ねた。
「女嫌いの君に聞いても仕方がないかもしれないが、沈み込んでいる女性を慰めるには何がいいと思う?」
  アレスはゆっくりと答えた。
「気分を変えることでしょうか。 たとえば買い物をするとか、芝居を見に行くとか」
  男爵は膝を打った。
「彼女は外出好きではないのだが、それをいいことにわたしも連れ出してやらなかった。 いいことを聞いた」
  アレスは黙って頭を下げた。


 かちゃかちゃと拍車の音を響かせながら階段を上がってくる足音を聞いて、エルミーヌはさっと窓を離れた。 まもなくドアが開き、ド・レックレ男爵の明るい顔が覗いた。
「こんな時間だが、顔を見たくなって」
  エルミーヌは微笑して、暖炉の前の椅子を手で示した。
「どうぞ」
  どっかと腰を下ろすと、男爵はエルミーヌに手を差し出した。 請われた通り、彼女は傍に歩み寄って腕に抱かれ、膝の上に座った。
  ふっくらした胸の前で腕を組み、顔を柔らかい首筋に埋めながら、男爵はささやいた。
「こんな狭い部屋に閉じこもっていてはいけない。 明日街に出かけよう。 外は寒いが、もう南の国から持ってきた果物を売っている店を見かけたよ」
  エルミーヌは目を伏せて、小声で言った。
「いつも気遣っていただいて」
  男爵の表情が真面目になった。
「どうしていつまでも他人行儀なんだ? もっと打ち解けて、わがままを言ってもらえないか」
「今のままで充分幸せです。 幸せすぎるぐらいです」
「それは嘘だ」
  ド・レックレはきっぱりと言った。
「君は不幸だ。 わたしがエシャンの森で見つけてからずっと」
  エルミーヌの体が固くなるのを、ド・レックレは胸で感じ取った。 パリに来て以来、2人の間でその話が出るのは初めてだった。
  今夜こそ聞こう、と男爵は決意し、やや緊張して口を切った。
「あのときも訊いたが、君は答えてくれなかった。 今なら話してもいいんじゃないか? 君はどこから来て、どこへ行こうとしていたんだ? なぜたった一人で森の中で首をくくったりなど……」
  エルミーヌは彼の膝から降り、窓に近づいて寄りかかった。
「ひとつだけお話できます。 子供の頃は修道女になるのが望みでした」
  あっけに取られて、男爵は彼女の横顔を穴があくほど見つめた。
「驚いたな。 一日に2人の僧侶志願に会うとは」
  エルミーヌは答えなかった。 ド・レックレは慎重に尋ねた。
「どうしても言いたくないなら、無理にとは言わない。 その代わり、これには答えてくれ。 今一番欲しいものは何だ?」
  エルミーヌの指が、無意識に窓ガラスの上をさまよった。
「欲しいものはありません。 すべて満たされています」
「そんなはずはない!」
  じれて、男爵は叫んだ。
「何もかも満たされているなら、なぜ悲しむ!」
「今のままがいいのです。 このままが」
  バネ仕掛けのように立ち上がると、ド・レックレはエルミーヌを背後から強く抱いた。
「結婚してくれ」
「できません」
  小さい声だが明瞭に、エルミーヌは言い切った。
「何度もお答えしました。 私はあなたのような立派な方の奥方にふさわしい人間ではありません」
「こんなにふさわしい女性は他にいない。 やさしく、賢く、しっかりしていて、しかも慎ましい。 家柄などどうでもいいのだ。 頼む!」
「できません!」
  彼の腕を逃れて、エルミーヌは壁につかまった。 男爵はやり場のない怒りに取り巻かれ、暖炉の縁を拳で叩いた。 エルミーヌはうつむき、ぎこちない声で言った。
「冷えますね。 温かい飲み物でも用意させましょう」

  エルミーヌが席を外した後、ド・レックレは窓に向かい、コツコツと指先でガラスを叩きながら考え事をしていた。 その手が、不意に止まった。 下の道路を大きな松明〔たいまつ〕を持った男が通り、その灯が窓に反射して、これまで見えなかったものが目に入った。 それは、細い指で書かれた字だった。
「パトリス、バトリス、バトリス……」
  さっと男爵の顔色がなくなった。 血の気が失われ、唇が紫に変わった。
  だが、エルミーヌが戻ってきたとき、ド・レックレは椅子にくつろいで座り、笑顔を向けた。
「ありがとう。 さあ、2人で飲もう。 今日フレデリックに聞いたのだが…」
  楽しげに世間話を続ける男爵の声を、エルミーヌは微笑を浮かべて聞いていた。





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