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Chapter 4


 翌晩の9時きっかりに、黒マントと黒い帽子で身を包んだジャン・ルイは、裏口の戸の陰でロウソクを掲げて、白い寝巻き姿で待っていたソフィに、そっと迎え入れられた。
 階段を静かに上がりながら、青年は小声で尋ねた。
「奥方はもうおやすみ?」
「ええ、もう1時間も前に」
  小間使いはささやき返した。 2人は足音を忍ばせて、ソフィの部屋に当たる、主寝室に続く小部屋に入った。
  戸をぴたりと閉め切ったとたん、ソフィにとっては天地が引っくり返った。 突然に、青年は隠し持った布で彼女に猿轡〔さるぐつわ〕をかませ、ベッドに倒して、両手首、両足首を背後で縛り上げた。 その間1分とかからない早業だった。
  ベッドに転がされて目を裂けるほど見開いているソフィにはもう目もくれず、彼は、入ってきたのとは反対側のドアに近づいた。
  この裏切り者が何をする気か悟ったソフィは、懸命に身をもがいて唸り声を上げたが、しっかりと縛った縄はびくともしなかった。 男は気を遣いながら音もなくドアを開き、すべりこんですぐ閉めた。

  奥方のエルミーヌの寝室には、窓から淡い月の光が射しこんでいた。 ジャン・ルイと名乗った青年は、奥に置かれた寝台に近寄り、白い天蓋の陰に身をひそめて、無言で枕の上の顔を見つめた。
  それは、可憐な顔だった。 刷毛で引いたような眉の下に、ふっくらした瞼が続き、長い睫毛が柔らかい頬に影を伸ばしていた。 愛らしく反った鼻は、薔薇のような口元をなおいっそう引き立てていた。
  やがてエルミーヌは軽く吐息をつき、寝返りを打った。 そのとき、ふと目が覚めた。
  何者かが部屋の中にいる。 物音も、息遣いさえ聞き取れなかったが、それでも彼女にはわかった。
  横たわったまま、右手だけをそろそろと移動させて、エルミーヌは枕の下の短刀を掴もうとした。 その手を、不意に男の手が掴み、敷布団に押しつけた。 叫び声をあげようとした口を、もう片方の手がふさいだ。
  自由になる方の手を振り上げて抵抗しようとしたエルミーヌの動きが、ぴたりと止まった。
 口を押さえた手袋の下からじっと男の顔を見ている青緑色の瞳に、ゆっくりと涙が盛り上がっていった。
  エルミーヌの上に身をかがめて、男は呼んだ。
「ポーレット」
  エルミーヌ、実はポーレットは、左手を持ち上げて、男の腕に軽く触れた。 その指は小さく震えていた。
  男はゆっくりと、口を押さえていた手を外した。 彼から目を離せずに、額から頬、顎から首筋と視線を移して見つめつづけながら、ポーレットはかすかに言った。
「パトリス……」
  ジャン・ルイことパトリスは、静かにベッドに腰を下ろした。 ポーレットは夢中で身を起こし、パトリスに抱きついた。
  彼は抱き返さなかった。 ただ黙然と座り、ベッドに月が映した2人の影に目をやっていた。 それでもパトリスの肩に額を押し当て、ポーレットは切ない幸福感にひたっていた。
「あなただった…… やっぱり、あなただった……」
「どこでわたしのことを?」
  パトリスは静かに尋ねた。 その肩にそっと口づけして、ポーレットは答えた。
「仮縫いを頼んだお針子たちが噂をしていたの。 近衛連隊に、半年前から光のように眩い剣士がいる、純粋な金髪と湖のような青い眼をしているって。 それで男の子に変装して、宿舎にあなたを見に行ったの」
「なぜそのとき話しかけなかった?」
  ポーレットの唇が震えた。
「周りが怖そうな剣士の人で一杯だったから…… でも、手紙を書いたわ。 会いに来てほしいって」
「匿名の手紙をね」
  パトリスの声は冷たかった。
「女からの手紙は読まない」
「だから妙な人が代わりに来たのね」
  ポーレットは哀しげにつぶやいた。
  パトリスは枕の下に手を入れ、鋭利な短剣を取り出した。
「これで追い返したのか。 用心がいいな」
「あんな目には遭いたくないから。 もう二度と」
  2人はしばらく沈黙した。
  やがて、ポーレットが遠慮がちに、パトリスの胸に腕を回した。 とたんに彼は、顔をゆがめて立ち上がった。 ポーレットは思わず腕を差し伸べた。
「パトリス……」
  一瞬、間があった。 それからパトリスはベッドに身をかがめ、激しくポーレットを抱きしめた。

  夜明けが近づき、空が白みはじめた。 ポーレットが腕に巻いた手を静かに外して、パトリスは身支度をした。 ポーレットは引き止めなかった。 ベッドの上に横たわり、彼の動きをじっと目で追っていた。
  戸口で、パトリスは振り返った。 布団の上の白い花のような顔と、枕に広がった金褐色の巻き毛が目に焼きついた。 唇が開いたが言葉にはならず、彼は再び口を固く引き結んで小間使いの部屋に入り、戸を閉めた。
  ソフィはまだ、がんじがらめの状態のまま、寝台の下に横たわっていた。 自分で転がり落ちたらしい。 パトリスが歩み寄って縄をほどくと、火のような憎しみを込めてにらみつけた。
「嘘つき! 悪党!」
  パトリスは冷然と足元の娘を見下ろした。
「見かけで人を判断するからだ。 これでも少し前までは、冷血漢、人でなしと言われ続けていた」
  ゆっくり娘の横にかがみこむと、パトリスは強烈に釘を刺した。
「昨夜、隣りの部屋で、俺が何をしていたかわかっているな。 そのことを誰かに、特にド・レックレ男爵とやらに一言でも言いつけてみろ。 おまえがどこにいても見つけ出して一刺しにしてやる。 いや、おまえだけではすまない。 隣りの部屋の美人もだ」
  青い眼が、稲妻のような光を帯びて少女の胸を切り刻んだ。 震え上がったソフィは、歯をがたがた言わせながらうなずいた。


 数日後、グレベールがアレスを呼び、ある任務を命じた。
「大変重要な極秘任務だ。 ある意味では国家反逆の手先ともいえるが、まあそこまで大げさに考えることもなかろう」
  髭をひねって咳払いして、グレベールは続けた。
「さる国賓級の人物が、今夜さる高官を訪問する。 お忍びなので護衛と道案内を兼ねて、さる貴族が一人付き添うが、それだけでは暗殺者から逃れるのは心もとない。 それで、腕が立ち、口が固い剣士を一人、差し向けることになった」
「さる、さる、さると、さるばかりですね」
  うんざりして、アレスは言い返した。 グレベールは苦笑した。
「それは表向きだ。 実を言うと、イギリスのあの間抜けた外務大臣が、もっととぼけたわが国の内務大臣と会談するだけなんだが」
「だけ?」
  アレスは皮肉に眉を吊り上げた。
「そうわしは思う。 別に内通するわけじゃあるまい」
「そうですね」
  無表情に言うと、アレスは細部に話を移した。
「それでどこへ行けばいいんですか?」
「カレーの港に行って、そこに迎えに出ている貴族の、ええと、ステファーヌ・ド・レックレ男爵の指揮下に入れ」
  その、耳に焼きついた名前が出た瞬間、アレスの目が暗く光った。 だが表情は変えないまま、彼は一礼して隊長の部屋を出た。





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