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Chapter 3


 視野をかすめた輿を追いかけて、走りに走りながら、アレスは思っていた。 また追いつけない。 真夏の蜃気楼のように、どこまで追っても顔を定かに捉えることは出来ない。 いつもそうなのだ。 自分が全力で追ってはいないからだということを、彼は心の片隅では悟っていた。 十中八、九彼女ではない。 万が一そうだとしても、確かめてどうなるというのか。
  四つ角を曲がったところで、輿は消えた。 見失ったのだ。 角々を覗きまわれば遠ざかっていく輿を発見できるかもしれなかったが、アレスはあえてそうしなかった。 彼女ではない。 彼女ではなかった、と自分に言い聞かせ、ゆっくり宿舎に戻っていった。


  高い塀をめぐらした宿舎に戻ると、以前命を助けてから妙に慕ってついてくるレオン・ダルビーがさっそく飛んできて、アレスにねだった。
「なあ、この手紙読んでくれよ」
  レオンはまったく字に弱い。 したがって読み物はすべてアレスに頼んで代読してもらうのだった。
  何気なく手紙を受け取って、アレスは顔をしかめた。
「おい、これは俺宛だぞ」
「わかってるよ」
  レオンは陽気にウインクした。
「でもなんかきれいな字だから、きっと美人だよ。 なあ、読んでくれよ」
  しかたなく、アレスは普段は見向きもしない自分宛の付け文を開き、声を出して読んだ。
「『一目で心臓を掴まれたようなショックを受けました。 一夜だけ私のもとに来ていただけたら、どんなに感謝し、一生の思い出にすることでしょう。
  でもわけあって姿かたちをお見せすることはできません。 明後日の夜11時にサンベルナール街の角から3軒目の、窓に白いスカーフの下がった家においでください。 仮面をつけた小間使いが案内します。
  どうか、どうか一生のお願いです。 お聞き届けください。
      あなたに永遠の憧れを持つ者より』」

  一瞬拍子抜けした体のレオンだったが、じきに目が輝きはじめた。
「でもこれって冒険だよな。 顔が見せられないってことは、人妻か深窓の令嬢か、どっちにしてもたやすくは手に入らない上玉ってことだ。 男にとって損な話じゃない。 行くよ、俺は」
「ご自由に」
  何の関心もなく、アレスは手紙をレオンに渡して、一言だけ忠告した。
「マスクをしていけよ」
  レオンはくさった。
「どうせ俺の顔はおまえには及びもつかないさ、 だが体つきも背の高さも同じようなもんだ。 ごまかして、うまくやってやる。 戦果は報告するよ」
「やめてほしいね。 人の色恋に興味はない」
「自分のにも興味ないくせに」
  レオンは笑った。
「修道院の坊主にでもなれ。 もったいない野郎だ」


 その晩から、アレスは剣の腕を買われて要人警護の任務に就き、3日間パリを離れていた。 4日目に戻ってくると、すぐにレオンが飛んできて、アレスの袖を引っ張り、半ば無理やりに宿舎の裏庭に連れ出した。
  袖を引きはがしながら、アレスは疲れもあって不機嫌に言った。
「なんだ。 腹が減っているのに」
  レオンは息を弾ませて話し始めた。
「あの謎の女の家に行ってきたんだ」
「だから何だ」
  アレスはますます機嫌を損ねた。 レオンは耳に口を寄せ、小声になった。
「あれはただの憧れじゃない。 おまえを知ってるぞ、絶対」
「馬鹿なことを」
  アレスは冷たく笑った。 だがレオンは引き下がらなかった。
「まあ聞け!
  11時少し前にその家に行ったら、約束どおり中から大きな仮面をつけた小間使いらしい女が出てきて、中に通してくれた。 そのまま2階に上がり、真っ暗な部屋に入った。 幾重にも幕をかけて、鼻をつまんでもわからぬ暗闇だった。
  やがて不意に唇に触れられたので、しめたと思って前にいる女を両腕に抱いた。 そのとたん、力任せに突き飛ばされたんだ。
  あっけに取られた俺に、女は叫んだ。 誰です! と。 そして、なおもごまかして近づこうとすると、胸に短剣を突きつけられた。 本物の殺気を感じて、おとなしく引き下がるしかなかったんだ」
  話が進むうちに、アレスの顔が少しずつ変化した。 無関心が、石のような無表情に、そして最後には血の気を失って蒼白に変わった。
  それでも、すっとレオンから体を離すと、彼は努力して冷静に言った。
「おまえがやたら酒くさかったから見破られたんだ」
「そんなことはない。 わざわざエチエンヌから香水を借りていったというのに」
  レオンはしょげていた。 そんな彼を、アレスはやや乱暴に誘った。
「それより腹がすいてたまらん。 用心棒代が入ってふところが暖かいから、今日に限りおごってやろう。 さあ、行こう」
 

  翌日、サンベルナール街で、マントを体に巻きつけ、帽子を鼻にかかるまで深く引き下げたアレスが、建物のすぐ際をひっそりと歩いていた。 やがて、とある家の通用口から若い娘が出てきて、道の掃除を始めた。 大戸に隠れるようにして、その娘の顔を記憶に刻み込んだアレスは、マントを更に強く体に引きつけて歩み去った。

  翌日、ド・レックレ家のかわいい小間使いソフィは、灰色の上着を着た、見たこともないほど美しい青年に声をかけられて、ぱっと顔を赤らめた。 彼もにっこりと笑い、甘く低い声で言った。
「昨日君を見かけたんだ。 なんてかわいい人なんだろうと思った。 でもきっともう恋人がいて、僕なんか割り込む隙はないんだろうね」
  わくわくと心躍らせて、娘は言った。
「そんなこと…… あなたはすごく素敵だわ」
「それなら明日、広場へ行って、はやりの人形芝居を見よう。 君とならきっと楽しいだろうな」
  ソフィは一遍にとりのぼせてしまった。

  翌日の午後、きっとあの人の気まぐれだ、来るはずはない、と思いながらも、ソフィは寛大な女主人に頼み込んで数時間の休みをもらい、裏口で胸を高鳴らせながら待っていた。
  すると2時を過ぎたころ、紺色の服をまとった青年が現れ、優しくソフィの腕を取った。
  ジャン・ルイと名乗る青年と、ソフィは夢のような午後を過ごした。 彼は祭りの人ごみからソフィを上手に庇い、華やかなイヤリングを買ってくれた。 この一日で、というより実は前日一目見たときに、彼に夢中になったソフィは、また会おうというジャン・ルイの言葉に有頂天になり、自分や雇い主の暮し向きについて、次々と話してしまった。
「うちの奥様のエルミーヌ様は、近所でも評判の美人なのだけれど、あんまり外出なさらないの。 旦那様のレックレ男爵は……」
「男爵?」
  ジャン・ルイが低く尋ねた。 ソフィは無邪気にうなずいた。
「そう、私が会った中では、あなたに次いできれいな男の人よ」
「どんな風に?」
  ちらっと笑って、ジャン・ルイはいたずらそうに尋ねた。
「背はあなたぐらい。 髪も眼も濃い茶色で、ビロードのように艶があるの。 奥様に夢中で、見えるときはいつも何かすてきなプレゼントを持ってくるわ。 宝石とか、珍しいショールとか」
「あそこに住んでいるんじゃないのか?」
「まさか!」
  ソフィはジャン・ルイの世間知らずを笑った。
「レックレ様はテュイルリーの近くに立派なお屋敷を構えているわ。 こちらは別宅。 愛人の家というわけ」
「なるほど」
  ジャン・ルイの眼が光った。
「そのおやじがいるときは、安心して君に会いにいけないな。 今度いつ来るんだい?」
「おやじじゃないわ。 あなたと2つか3つしか違わないわよ、きっと。 男爵は王様のお供でプロヴァンスに行っているから、あと3日は帰ってこないわ」
「そうか。 じゃ明日の晩、君のところへ行っていいかな?」
  ソフィの頬が上気した。
「ええ! 明日の夜の9時に、ドアを開けて待ってるわ」



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