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Chapter 2


 響きのいい透んだ声だった。 彼が話すことがあるとはまったく予想していなかったので、言葉の内容よりその声に、ポーレットは仰天した。
  一歩そばに近寄って、青年はささやいた。
「裏の小道をどこまでもまっすぐ行くと小川がある。 橋を渡ったところに《青い狐》という旅籠があるから、そこで助けを求めるがいい」
  逃がしてくれる――そう聞き取ったとたん、ポーレットの全身に震えが走って止まらなくなった。 だが、頭の大部分では信じきれなかった。 なぜ不意にこんなことを、なぜ私だけに……!
  口が生き物のように勝手に動いた。 自分ではないようなかぼそい声が耳に響いた。
「あなたも……」
  青年の眉が寄った。 予想外の言葉だったらしい。
「え?」
「あなたも一緒に逃げましょう!」
  誰かが通風孔から盗聴しているかもしれない。 そんな気配を感じたことが一度ならずあった。 だからポーレットは青年同様、できるだけ息に近いささやき声で言った。
「私を逃がしたりすれば、あなただってきっとただではすまない。 お仲間のあの子のようにされてしまうかもしれないわ。 行きましょう」
  青年は歯を食いしばり、両手の拳を固く握って何かに耐えていた。 数秒が過ぎた。
  それから、彼は体の力を抜き、ふところから小さな布包みを出してポーレットの手に押しつけた。
「じゃ、とりあえずこの金を持って《青い狐》に宿を取ってくれ。 一週間は泊まれるはずだ」
「あなたは?」
  やはり一人で逃げるような話の展開に、ポーレットは思わず尋ねた。 青年は低く答えた。
「持ち金がこれでは逃げおおせることはできない。 金箱から取ってくる」
「そんな危ないこと!」
「それしか手はない。 なんとかなる。 これまで逆らったことはないから、そんなことができるとは思っていないだろう。 今夜中か、おそくにも明日の朝には追いつくから」
「でも……」
「時間がない。 早く!」
  青年はポーレットをうながして、用心深く扉をすり抜け、音をさせずに閉じた。
  2人は忍び足で階段を上った。 裏口の戸をあけると、まだ昼間とポーレットが思っていたのは間違いで、もう日は沈み、辺りは薄闇に包まれていた。
  戸の横に隠していた黒いマントをすばやく着せかけると、青年は一言言った。
「行け!」
  ポーレットは一瞬ためらい、青年の袖を握って尋ねた。
「お名前は?」
  彼の整った顔が一瞬歪んだ。 ふたりは名乗りあってさえいなかったのだ。
「パトリス」
「私はポーレット」
  眼が合った。 どちらからともなく顔を寄せ、唇が触れ合った。 ただ短く、ごく軽く。
  次の瞬間、パトリスは激しく少女を押し出した。 突んのめるように、ポーレットは弱々しい足取りで走り始めた。


 《青い狐》にたどり着いたのは、15分ほど速足で歩いた後だった。 マントのフードでできるだけ顔を隠すようにしながら、ポーレットは2階の端にある、道がよく見通せる部屋を取った。 そして一睡もせず、翌朝の食事もとらずに、窓から川に通じる道を眺め続けた。 しかし、日が高くなり、又低く下がっていっても、パトリスのすらっとした姿が道に現れることはなかった。
  夕方になって、ポーレットは膝を折り、窓枠にもたれて震えながら眼を閉じた。 彼は捕らえられたのだという恐ろしい確信が、心の中に黒い根を張り、みるみる広がっていった。
  追っ手がかかるかもしれないという恐怖は、不思議なほどなかった。 《青い狐》には、屈強な主人と、元気な若い雇い人が少なくとも3人はいる。 街道の角地といういい立地条件で、始終客が出入りしている、こういう宿に、女一人を取り戻そうと悪党たちが襲ってくるはずはない。
  宿の主人に助けを求めようとも考えた。 だが、逃げ出してきた館の広壮なたたずまいを思い出すと、とてもできなかった。 あれは明らかに有力者の城館だ。 旅籠の主人が太刀打ちできる相手ではなさそうだった。
  赤い太陽が燃えながら沈んでいく間、ポーレットは歯の音が合わない状態で、床に座り込んでいた。

 3日間、ポーレットはパトリスを待った。 そして4日目、空に夕焼けが見えはじめた頃、再びマントをまとい、旅籠の裏口から外に出た。 そして、右手に見える林に向かってまっすぐ歩いた。
  だんだん黒ずんでいく大木にたどりつくと、ポーレットは素早く下着の裾を裂き、長い紐をより上げて、太い枝にかけた。 それから手近な石を抱えてくると、その上に乗って首に紐をかけ、一気に身を躍らせた。







 季節は秋から冬に変わりかけていた。 マロニエの木はほとんど丸裸に近く、ごくたまにちらちらと石畳の上に枯葉を落とすだけだった。
  サクレ・クール寺院の庭にある花壇の縁に、男が一人、足を投げ出して座っているのが鐘楼の上から見えたので、近衛連隊の小隊長であるグレベールは溜め息をつき、ゆっくりと急な階段を下りていった。
  鍔広の帽子を目深にかぶって、男は口笛を吹いていた。 グレベールは彼に近寄り、やや乱暴に、投げ出された足を蹴った。 男は別に驚かず、ゆっくり顔を上げた。
  ノートルダム寺院のステンドグラスの天使そっくりと、街の落書きにまで賞賛された美貌が、グレベールの眼を射た。 まったく何度見てもドキッとする、とグレベールは心の中で唸った。 この顔の神々しいほどの美しさに、純粋に心惹かれたおかげで、グレベールはこの半年間、陰に日なたにこの男を庇い通す羽目に陥っていたのだ。
「また誰かに喧嘩を吹っかけられたな」
  グレベールが文句を言うと、男は片頬だけに薄笑いを浮かべた。 ふうっと深い息をはき、グレベールは彼の横にどかんと座った。
「いいかげんにしろ、アレス。 相手にしないで遠ざかればいいんだ。 おまえのせいで怪我人が増えて、護衛の役をなさないと、リシュリュー殿の親衛隊長が文句をつけてきたぞ」
「あんな弱い者ばかり使うのがいけないんです」
  アレスと呼ばれた若者はそっけなく言い返した。
「たしかに喧嘩と女遊びは連隊の花だが、おまえはちょっと度が過ぎる。 優男だからとなめてかかって挑戦してくる奴も、最近はぐっと減ってきたはずだ。 何人倒した? え?」
「数えてなんかいませんよ」
  アレスは面倒くさそうに言った。 その腿を、グレベールはぽんと叩いた。
「決闘より女遊びにしろ。 恋文が毎月つづら一杯になるほど来るというおまえじゃないか」
  答えずに、アレスはふっと立ち上がった。 グレベールが見ると、寺の門からリシュリュー親衛隊の制服を着た男が2人入ってくるところだった。
  寺院の鐘が鳴った。 アレスは優雅に一礼して、よく通る声で言った。
「たいへん時間に正確ですな」
  相手は答えず、さっと剣を抜いた。 2人がかりでアレスに打ちかかろうとしているのを知って、グレベールも柄に手をかけた。
  油断なく2人に等分に目を配りながら、アレスは低く叫んだ。
「小隊長は手を出さないで下さい。 関係ないのですから」
「決闘と闇討ちを間違えているやつらには我慢できないのでね」
  太い声で答えると、グレベールは勢いよく剣を引き抜いた。


 勝利を祝って、グレベールはアレスを半ば無理やり近くの酒場に連れて行った。 2人が奥の席に陣取って帽子を脱ぐと、たちまちウェイトレスがテーブルをぬって近づいてきた。 頬が紅潮し、眼がうっとりと見開かれている。 アレスを見たときの女性の典型的な反応だった。
「何にします?」
  注文を訊く相手はアレスだけ。 グレペールの方は見ようもしない。 彼は髭をひねって苦笑した。
  当のアレスは心ここにあらずという様子で、ビールを頼んだ。 女はいそいそと速足で奥へ行った。
  すぐに出てきたビールを呑みながら、グレベールは尋ねた。
「おまえが好きなのは剣術だけか? なぜご婦人方の切なる願いに応えてやらない?」
  アレスは黙って盃を傾け、水のように酒を胃袋に流し込んだ。 しかし赤くはならず、白い顔は静かなままだ。 グレベールは彼の腕をつかんで揺すぶった。
「恋をしろ、恋を! その若さと美しさでもったいない!」
  腕をとられたまま、アレスは呟いた。
「若さが何です。 地獄に落ちた者に、何の未来があるというのです」
  彼の言葉に冷やりとするものを感じて、グレベールは思わず手を引いた。
  異変が起きたのは、そのときだった。 ぼんやりと窓の外を眺めていたアレスの顔が突然引きつり、手が固く握りしめられた。 彼がこんなに表情を変えるのは初めてなので、グレベールは驚き、呼びかけようとしたが、それより一瞬早く、アレスは椅子を倒して立ち上がると、一言の断りもなく、酒代も払わずに、酒場を飛び出していった。





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