表紙へ

Chapter 1


 モン・サン・ミシェルを巡礼として訪れる者は多い。 その寺院の前の砂浜は、急激な干満の差による流砂で多くの人の命を飲み込む、恐ろしい死の罠になっている。 それでも人々は、むしろその危険を楽しむかのように、続々と連なっていく。
  伯父に伴われてお参りに出立したポーレット・クレミオーも、モン・サン・ミシェルに消えた一人だった。 沈痛な面持ちで、故郷に独り戻った伯父は、その後間もなく新しい牛を買った。
 
  伯父のユベールから忘れ物を取ってくるように言われて、旅籠〔はたご〕の狭い廊下を歩いていたポーレットは、不意に横合いから腕を捕らえられ、叫ぶ暇もなく頭にすっぽり布を被せられて、軽々と抱え上げられた。 
  人さらい達は手際がよかった。 あっという間に馬車にポーレットを放り込み、扉を閉めると、がたがた道を飛ぶように走らせた。
  2時間は走っただろう。 馬車は止まり、再び男たちはポーレットを抱き上げると、建物の中に連れ込んだ。 そこでようやく被り物を外してくれたので、彼女は不意に明るくなった視野に思わず目を細めながら、おびえた表情で見回した。
  そこは四角い箱のような部屋だった。 ぐるりを石壁が取り囲み、壁の何箇所かに松明〔たいまつ〕が陰鬱な炎を上げながら燃えていた。
  さらってきた男たちはすぐ姿を消し、数人の女たちがいるのが見えた。 みなポーレットの引きうつしのように若くて美しく、全員がひどくおびえていた。
  服装はまちまちだった。 金持ちの令嬢風に着飾っている娘、可憐な町娘、そして頭巾をかぶった田舎の子…… ポーレットを入れて、6人が部屋の中に入れられていた。
  初めポーレットと他の娘たちは離れて立ったままお互いを探っていたが、やがて頬の赤い町娘が意を決して近づいてきて、小声で言った。
「みんな、さらわれてきたの。 あちこちから」
「ここは地下室らしいわ」
  貴族令嬢がいまいましげに呟いた。
「どこにも窓がないの。 扉もあそことあそこの2つだけ。 右に行くとつるべ井戸があって、横が土間になってるの。 わかる? 穴が掘ってあるの。 つまり、トイレ」」
  恐怖で胃が収縮した。 田舎の子はしくしくと泣いていたが、話し出すと泣く理由がわかった。
「毎日、来た順番に連れ出されるのよ。 1人か、2人ずつ。 そして二度と帰ってこないの」
  今度こそ吐き気がしてきた。

  まったく時間のわからない空間だった。 月も星も太陽からも、完全に遮断されているのだから。 それでもポーレットは来たばかりなので、さらわれた時間から逆算して、おそらく夜の8時ごろだろうと見当がついた。

  そのとき、カチャリという金属の触れ合う音がして、扉が開いた。 おびえて、ポーレットは壁に張り付いた。
  入ってきたのはふたりの若い男だった。 一人は、篭にパンと干し肉とちしゃの葉を入れて両手に持ち、もう一人はワインの入った壷を下げていた。
  青年たちはどちらも非常に整った顔立ちをしていた。 だが、まったく愛想がなく、娘たちに一瞥もくれずに、まるで家具か何かのように無視して、持ってきた食料を床に置くと、すぐ出ていった。
  反射的に胸を抱いて防御する姿勢を取っていたポーレットは、いくらかほっとして力を抜いた。 令嬢がぽつんと言った。
「あいつらは手先。 何もしないわ。 ただ、連れ出すだけ」

 令嬢はコレット、町娘はファンティーヌと名乗った。 他の娘たちは恐怖に固まり、絶望の淵にいて、泣いてばかりいるか、口もきけなくなっていた。
  コレットはまだあきらめてはいないようだった。
「うちの親は商人連合の会長なの。 つてをたどって、私を見つけて買い戻してくれるわ。 お父様なら絶対に、見つけてくれる!」
  自分自身を納得させるように強く言い切って、コレットは眼に力を入れた。
  買い戻す――その言葉に、ポーレットは背中に氷を押し当てられたような悪寒を覚えた。 拉致誘拐の目的は、やはり人身売買なのか…

  夕食が喉を通るはずがなかった。 ほとんどの娘は何も口にせず、ワインを少し飲んだだけだった。
  コレットはポーレットが気に入ったらしく、手を取って、隅に積んである藁のところに導いていき、並んで座った。 その粗末な藁敷きが、どうやら寝床代わりらしかった。
  2人はしばらく、手を取り合って黙っていた。 それからコレットがささやくように言った。
「どちらかが無事に逃げられたら、家族に知らせることにしましょう。 そしたら助けに来てくれるか…せめてどうなったかわかってもらえる。
  私はコレット・ファン・ドゥーゼン。 ベルンの穀物商の娘。 父が取引のついでにここに寄ってお参りするというから、ついてきたの」
  私と同じだ、とポーレットは思った。
 
  ささやかな打ち明け話をお互いに交わして、いっそう仲よくなったところで、他の娘たちが藁のほうへ寄ってきた。 疲れて眠気がさしてきたらしい。 6人は、狼から身を守る羊のように寄り添って、浅い眠りに落ちた。
 
  翌日の、たぶん午後あたりに、迎えが来た。 ファンティーヌと、もうひとり小柄な娘が、若い二人の男によって連れ出されていくのを、コレットは睨みつけ、ポーレットは口に手を当てて見送った。
  2人は既に覚悟を決めていたらしく、泣きもせず、表情を強ばらせながら歩いていった。 一度も振り返らずに。
  ポーレットはゆっくりと藁の上に膝をついた。 そして、祈った。
「あの人たちが逃げられますように。 それがだめなら、せめて運に恵まれて、のちのち自由になれますように」
「人のことなんか!」
  不意に鋭い声が飛んだ。 これまでまったく周囲に関心を示さず、口をへの字にしてうつむいていた、茶色の服の娘だった。
「最後に来たからって余裕持ってるんじゃないわよ! みんな同じ運命! 海を越えて運ばれて、トルコの後宮かなんかに入れられちゃうのよ!」
「やめて!」
  コレットが一喝した。
「喧嘩して何になるの。 力を残しておくのよ。 そして逃れる方法を考えるの」
「どうやって」
  茶色の服の娘は鼻で笑った。
「あいつらはいつも2人で来るのよ。 女でも6人で飛びかかられたら敵わない。 だからちゃんと用心してる。 逃げ場なんかない」
「買収できないかしら。 逃がしてくれたら5百ダカットあげると言えば」
  コレットの提案に、皆顔を上げた。 初めてかすかな望みが出てきたという表情で。
 
  夕食時、前日と同じように、2人の若者が入ってきて、床に篭を置いた。 コレットは唾を飲んで喉をととのえ、それでも緊張でしわがれた声で言い出した。
「あの」
  2人は見向きもせずにドアに向かった。 コレットはあわてて追いすがった。
「うちの父は金持ちなの。 5百ダカット、いえ、千ダカットまでならすぐ用意できる。 私のためなら船だって売ってくれるわ。 だから私たちを逃がして!」
  2人の足が止まった。 息を殺して見つめていた娘たちの眼が、大きく広がった。 もしかしたら…!
  いくらか背の低い方の男が振り返った。 そして、口をあけると舌を突き出してみせた。
  いや、突き出したのではなく、口の中の空洞を見せたと言う方が正しい形容だろう。 彼には、舌がほとんどなかった。
  コレットは思わず2歩後ろに下がり、ポーレットに支えられた。 若者たちは無言のまま出て行き、扉を閉めた。
 
  異様な沈黙が部屋を支配した。 娘たちは顔を見合わせたが、しばらくは声を出せなかった。 
  やがて、茶色の服の娘がつぶやいた。
「前に金を受け取ったことがあるのね。 それで罰を受けて、舌を……」
  コレットはうなだれた。 唇が小さく引きつっていた。

 
 ポーレットは毎日祈った。 何かにすがらなければ気持ちを保っていられない。 何日経ったか、食事の回数でしかわからないようなこの地下室で、周りは日に日に無気力になり、絶望が支配した。
  すでに残っているのは半数となっていた。 ポーレット、コレット、それにファンティーヌ。 そしてその日は、ファンティーヌの番だった。
  気立てのいいファンティーヌは、手を取って連れていかれるまでもなく、無言で歩き出した。 思わずポーレットが呼びかけた。
「神の救いがありますように」
  若者の一人が顔を上げてポーレットを見た。 これまで一度もなかった仕草だった。
  彼の顔を見て、ポーレットは、はっとして言葉を途切れさせた。 なんという目だろう――それは、死人の目だった。 まるで生気がなく、訴えかけてくるものもない。 青く美しいが、ガラス玉のように虚ろだった。
  この人も、私たちと同じに犠牲者なのかもしれない――不意に、ポーレットはそのことに思い至った。 そして、反射的に口走っていた。
「あなたたちにも神のご加護を」
  コレットが振り向き、炎のような視線をぶつけた。 敵を祝福するとはあんまりだと思ったのだろう。
  若者は何の反応も見せずにもうひとりをうながして、ファンティーヌと共に出ていった。

  もうポーレットは覚悟して、その後男たちが持ってきた食物を少し口に運んだ。 体力がなければ逃げるチャンスが掴めない。 コレットはいくらか感心して、一見きゃしゃで風にも耐えない雰囲気のポーレットをながめた。
「見かけより度胸があるのね」
「開き直っただけ」
  ポーレットは侘しく答えた。
「両親をコレラて亡くして、一人だけ生き残ったときに思ったの。 ふたりが苦しい中でなんとかして私だけは助けようとして家を追い出したときに。 出ていけって、普段やさしい母に言われて大泣きしたわ。 でもそのおかげで伯父が引き取ってくれて、ここまで育った。 何がどうなるかは、最後までわからないのよ」
  コレットは溜め息をつき、足を藁の中に伸ばした。
「私はわがまま娘だった。 雇い人を鞭でぶったことがある。 ここを出ていけたらいい子になるわ。 私ね、ちょっと好きな男の子がいて……」
  大粒の涙が眼に浮かんだ。 乱暴に手のひらで拭い取ると、コレットは無理にほほえんだ。
「まだあきらめるのは早いわね。 命はあるんだから」
 
 
  そして、翌日が来た。 ポーレットが誘拐されて以来補充がないので、部屋はがらんとしてきて、いっそう恐怖が増した。
  何時かまったくわからない。 それでも迎えは来た。
  また2人でやってきたので、ポーレットはしっかりコレットの手を握り締めた。 だが、背の低いほうの若者は、その手をぐっと引いてほどき、コレットだけを連れていった。
  引っ張られていきながら、コレットは叫んだ。
「覚えていて! ファン・ドゥーゼンが私の苗字よ! もし家族に会うことがあったら、言って! お願いだから……」
  声が外の通路に木霊し、やがて小さくなって消えていった。
  扉はあいたままだった。 もう一人の若者は、部屋の中央に残り、じっと立っていた。
  ポーレットも立ったままだった。 明日こそ私の番。 いっそ早いほうがいいとさえ思えた。 今夜、一人っきりで、どんなに心細いだろう。
 
 そのとき、声が聞こえた。
「逃がしてやる」



 
Copyright © jiris.All Rights Reserved

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送