表紙
 part 2


 翌日の夕方、カメリハと呼ばれるリハーサルが早く終わったので、麻貴には自由時間ができた。 澄子は仕事の打ち合わせでプロデューサーと会うそうで、士朗に送ってもらうように伝言して、先に帰ってしまった。
  本当に打ち合わせなのか、それとも作戦の一環なのか、麻貴にはよくわからなかったが、どちらにしても士朗と2人きりになるのはどうしても避けたかった。 悪いと思いながら、麻貴はこっそり逃げ出して、駅前の店でカレーを食べた。 久しぶりの単独行動。 解放感でいっぱいだった。
  その気持ちが落とし穴になった。 

「やあ」
  声をかけられたので振り向くと、ベテラン俳優の桂川夏雄が立っていた。 俳優といっても主役ではなく、温厚な重役や父親役の多い人で、笑顔が明るい。 澄子には話していないが、麻貴は中年男性には恐怖心を抱かないし、むしろ好きだった。
  気さくに、桂川は横の席に座りこんだ。
「カレーか。 おいしいよね、ここのは」
「はい」
「僕は天ぷらうどん。 好きでね。 ここのは特にエビがうまい」
  聞きつけた店主がカウンターから笑顔を送ってきた。 桂川も手を上げて応じた。
  麻貴は食べ終わるところだった。 すると桂川はやさしく言った。
「うちか事務所まで送ってあげる。 ひとりじゃかわいそうだ」
  送り先に事務所をあげて安心させるのが手だとは、麻貴は知らなかった。
 
  暗い夜道を延々と走っていく車の中で、麻貴はようやく自分の判断ミスを悟った。
「あの」
「なに?」
「事務所はこんなに……遠くないと……」
「そう?」
  にやにや笑いながら、桂川はとぼけてみせた。
「お付き合い。 お付き合い。 君は演技うまいって評判だから、そのうちドラマに出るようなことになるかもしれないでしょう? そうなったら面倒見てあげるよ」
  ありえない――麻貴は必死で考えた。 どうやったら逃げられるか。 逃げ道はあるのだろうか……!


 この略取誘拐は計画的ではなかったらしく、途中で車のガソリンが切れてしまった。 やむをえずガソリンスタンドに寄ることになり、そこで麻貴は車から逃げ出した。
  突んのめりながらドアをあけようとする麻貴に、男の低い声が覆い被さった。
「俺は何もしてないよ。 したなんて言いふらしたら、君のほうが危ないよ」


  その脅しで、スタンドの若者に助けを求めることができなくなった麻貴は、仕方なく自販機に近づき、選んでいるような顔をしながら、携帯電話で澄子を呼んだ。
  しかし、出てくれない。 なぜか圏外になっていた。
  時計を見ると、いつの間にか10時を回っていた。 1時間以上連れまわされていたわけだ。 家族に心配かけたくないし、実家は岐阜だから飛んできてくれたって2時間以上かかる。
  途方にくれて登録番号をぐるぐるサーチした後、念のためもう一度、麻貴は事務所にかけてみた。 すると、沈んだ声の男が出た。
「もしもし」
  麻貴は夢中で叫んでしまった。
「助けて! 山の中のガソリンスタンドにいるの! ここまで無理に連れてこられちゃって」
「どこの山!」
  男の声が大きくなった。 麻貴はオレンジと茶の制服を着た従業員に小声で尋ねた。
「ここ、どこですか?」
  少年といっていいほど若い従業員は、好奇心を隠せない様子で答えた。
「高尾山だけど、どした?」
  あわてて顔をそむけて、麻貴は電話にかがみこんだ。
「高尾山って、知ってる?」
「ああ、今行く」
  頼もしい言葉だった。 言いようもなくほっとして、麻貴は自販機に寄りかかってしまった。

 寒くない季節で助かった。 建物の外で小さなベンチに座っていてもそう不自然ではないし、風邪を引く心配もない。 麻貴はあまり顔を前に向けないようにしながら、バッグから本を出して読んでいた。
  40分ほどが過ぎた。 活字にあきて、都内とちがい空にたくさんまたたいている星を眺めていると、道の曲がり角からグレーの四駆が出てきて、スタンドの前でなめらかに止まった。
  降りてきた人間を見て、麻貴は背中をドンと突かれたような気がした。
  それは、士朗だったのだ。
 
  世間は不思議に思うだろうが、地味な黒のジャンパーとズボン姿の士朗は、テレビに出演しているときよりずっと格好よかった。 彼がさりげなく車から降りてくると、先刻から麻貴に話しかけるチャンスを待っていた従業員は、露骨に残念そうな顔をした。
  やむなく、麻貴はベンチから立ち上がって挨拶した。
「ごめんなさい。 こんな時間に」
「早く乗りな」
  手短かにそれだけ言うと、士朗は先に立って車に戻った。

  暗い山道には不思議な雰囲気がある。 ライトで照らされている範囲しか見えないので、まるで黒い空間を飛んでいるようだ。 車内の2人はまったく無言で、車のエンジン音だけが耳についた。
  道が平らになったころ、士朗がようやく口を開いた。
「誰に連れてかれた?」
  言っていいものかどうか、麻貴は悩んだが、やはり許せなくて、話すことにした。
「桂川さん。 タレントの桂川夏雄」
「ああ」
  士朗は驚かなかった。
「若い子に見境なく手だすやつ」
  そうなんだ――知識不足でおまけに用心もない自分に、麻貴はあきれた。
「事務所に送ってくれるって言われて……」
「言葉を聞くな。 目を見ろ」
「え?」
「エロエロおやじは目が行ってる。 見りゃすぐわかる」
「うん……」
  カーブを切りながら、士朗は尋ねた。
「おまえ、男嫌いなんだろ? なぜ乗った?」
  困って、麻貴は唇をなめた。
「お父さんぐらいの人は、別に…」
  それっきり、士朗は黙ってしまった。


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