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怪盗ゲイル 3


 3時になって、村へ買出しに出かけていたピーターが、興奮して帰ってきた。
「今、村に早馬の使いが来て、張り紙を出してました。 勝ったそうですよ、ボニーの奴に」
  ボニーとはナポレオンのイギリスでの仇名だった。
  レンフィールド子爵は膝を叩いて喜んだ。
「そうか、勝ったか!」
「ええ、ネルソン提督は大英雄です! ただし、勝ったすぐ後に戦死しちまったそうですがね」
「気の毒にな。 でも、これでイギリスを侵略される恐れはなくなった」
  マグダがせかせかと部屋に入ってきて尋ねた。
「ああピーター。 タラの燻製は買ってきてくれた?」
  はっとして、ピーターは頭に手をやった。
「あの、忘れました」
「だめじゃないの!」
  マグダ夫人が眉を吊り上げて怒ると、ピーターは必死で言い訳した。
「メアリが一緒に来てくれないからですよ。 台所で要るものはあの子の担当なのに」
「どうしてメアリは行かなかったの?」
「ああ。 村に曲技団が来てましてね。 あいつらが来るときは、嫌がって村に出ないんですよ。 あんなの人さらいにさらわれた子供たちがやらされてるんだ、かわいそうだってね」
「あの子の優しさは、半端じゃないから」
  ふらっと入ってきたヘンリーが口をはさんだ。
「ここへ来たての頃はもっと情け深かったですよ。 3週間前には捨て猫を2匹も拾ってきて、牛小屋に隠してたんだから」
  レンフィールドは人の会話などまるで聞いていなかった。
「タラの燻製なんてケチな食い物はやめだ。 イギリスが救われた日なんだ。 今夜はカツレツの香草添えにするぞ! おいピーター、料理番に今すぐ言いつけておけ。 肉の準備があるからな」
「わかりました」
  おこぼれを想像してほくほくしながら、ピーターは姿を消した。
「なあ、聞いたか?」
  レンフィールドが珍しくヘンリーに話しかけた。 よほど興奮していたらしい。
「ネルソンがボニーの艦隊を打ち破ったそうだ」
「へえ」
  それほど喜びもせずに、ヘンリーは暖炉に近づいて手をかざした。
「外は冷えますよ。 ボニーね。 奴は今度はどこを攻めるかな。 トルコとか」
「面白がるな!」
  不愉快そうに、猫脚の椅子に座って爪先を暖炉で暖めていたレンフィールドはヘンリーを横目でにらんだ。
「わが大英帝国が、コルシカ上がりの軍人なんかに目をつけられるとは!」
「なめていると怖いですよ」
  ヘンリーの物憂げな声に、レンフィールド夫妻は共に顔をしかめた。
「ナポレオンはたしかに戦争がうまい」
「あの小男めが!」
  鼻息荒く言い放って、レンフィールドは大儀そうに立ち上がり、暖かい暖炉の傍をしぶしぶ離れた。 甥の皮肉を聞くのが大の苦手なのだ。
  マグダは両腕を組み、天邪鬼の甥を鋭く見つめた。
「おとなしく紅茶でも飲みなさい」
「いいですね、おばさんはのどかで」
「のどかなものですか! 大切なネックレスを盗まれたのに」
「奥様!」
  召使たちに次々と村の知らせを伝えていたピーターが戻ってきて呼びかけた。
「早馬の男とちょっと話したんですが、ネックレス泥棒は、ロンドンを騒がせている悪漢と似たところがあるそうです」
「ロンドン?」
  思いがけない地名に、マグダはピーターのほうを素早く振り返ろうとして、あやうく椅子ごと引っくり返るところだった。
「はい、奥様。 下々では怪盗ゲイル(=強風)などと呼んでいるそうですが、その悪党は、手鉤を使って、何度でも同じ家に盗みに入るらしいです。 最初は指輪、次は腕輪っていうふうに」
  ぎょっとして、マグダは立ち上がってしまった。
「また……また来るってこと?」
「もしかすると」
「ああ……」
  額に手を当てて気絶しかけた叔母を、ヘンリーが仕方なく支えた。
「やれやれ」 

  たちまちマグダの部屋には厳重な警戒が敷かれた。 侵入された窓には二つも頑丈な錠前が新たに取り付けられ、ドアの前と庭の木の下には毎晩見張り番が立つことになった。
  しかも、用心には用心を重ねて、宝石箱は他に移された。 どこに隠したか知っているのはレンフィールド卿ひとり。 マグダにさえ隠し場所は告げられなかった。
  マグダはぶつぶつ言った。
「もうじきパットナム卿の結婚式があるのよ。 何もつけないで行けというわけ?」
「そのときはわしが出してきてやるよ」
「頼んだわよ。 箱の隠し場所を忘れたなんてことのないようにね」
「まさか!」
  レンフィールド卿はずるそうに笑った。
「絶対にわからないところに、しっかり隠すよ」

 3日後の夜、ピーターの予言は早くも真実になった。 真夜中の一時、ドアによりかかった見張りが居眠りを始め、木の下にいたもう一人の見張りがこっそり居酒屋に逃げ出した後、ヒュッと夜気を切って手鉤が飛び、窓に引っかかった。

  ヘンリーは寝室を出ていた。 手燭をかかげて暗い廊下を歩くと、やせた影がゆれて気味悪かった。 ひとりだという事実が余計想像力をそそる。 思わずかがみこむようにして、ヘンリーはこそこそと石造りの廊下を歩きまわっていた。
  その途中で、音がした。 ガラガラ、ドン、という鈍い音で、人が縄を掴みそこねて、壁に当たりながら落ちていく有様が目に浮かんだ。
  間もなく屋敷中がざわめき、何人もが起き出してきた。 ヘンリーはとっさにそばにあったドアを開き、適当に入り込んで隠れた。
  前の通路を何人もの足音が通った。 マグダの部屋に駆けつけるのだ。 5分ほど待ってから、自分もそろそろ行こうとして、ヘンリーはノブを回しかけた。
  その手が止まった。 誰かがいる。 同じ部屋の中に、ごくかすかだが人の気配がした。
 
  ほぼ屋敷中の人間がマグダの部屋の前に集まり、がやがやとののしり騒いでいた。 やがて中から鍵が開き、髪を振り乱した夫人がよろめき出てきたので、よけい騒ぎは大きくなった。
「どうしたんです!」
  息を詰まらせて尋ねたのは、紺色のガウンをきちんとまとったアランだった。 がっしりしていて一番頼もしそうな青年に、マグダは遠慮なく寄りかかった。
「外で……外で大きな音がして……」
  結局夫人もろくに知らないらしい。 そう悟って人々はわれ先に部屋の中へなだれこんだ。
  窓はふたたび開けはなたれていた。 肌を刺すような冷気が流れてくる。 壁にかかった時計は、1時18分を差していた。 前日が雪だったので、照り返しでベランダはほのかに明るかった。
  ピーターが身を乗り出して下を覗くと、白い顔が見上げているのと目が合った。 びっくりして、ピーターは思わず口に手を当ててしまった。
「牧師様!」
  とたんにレンフィールド卿がピーターを押しのけ、ラーキン牧師に怒鳴った。
「今行く! そこを動かないでもらいたい! 犯人が雪につけた足跡が、わからなくなってしまうから!」
「犯人? やはり怪盗ゲイルなのですか?  気になって、ちょっと見に来てしまったのですが、たしかにベランダにロープが引っかかっているようですね」
  村で噂を聞いたらしい。 牧師は手をラッパにして叫び返してきた。 仏頂面になって、レンフィールドは再度言った。
「だからおとなしくしていてください! じっとして!」
  だが、息せき切ってレンフィールドとピーターが雪の庭に出たとき、すでに牧師の姿はなく、二列のきちんとした足跡が雪の上にくっきりと残っているだけだった。
  目でその跡をたどりながら、レンフィールドはうなった。
「同じ靴だ。 あの間抜け牧師の行き返りの足跡。 他に何もないじゃないか」
「でも、あの大きな音は?」
  ベランダの真下の地面にじっと目をこらして、レンフィールドはまた呻いた。
「おい、あそこに何か落ちているぞ。 ちょっと眼がかすんで……おまえは若いんだから見えるだろう。 なんだ、あれは?」
  前のめりになって地面を見つめていたピーターは、平和な口調で答えた。
「あれは椅子ですね。 奥様の部屋にあったロッキングチェアです」
  そのとたん、レンフィールドの顎が、がくりと下がった。
「しまった!」
「はい?」
「陽動作戦だ。 椅子を落として注意を引いたんだ!」
「はっ?」
「いちいち間抜けな声を出すな! わざとここで音を立てて、わしたちをおびき寄せたんだ!」
「はあ」
「わしとしたことが! 軍隊でこんなことは幾度も経験しておるのに! クソッ」
  わめくなり、レンフィールドはガウンの裾をひるがえして走り出した。

  1時半、かすかなキイッという音で、ジェニファーは顔を上げた。 誰かがベランダにうずくまっていた。 ダイヤか何かを使って、巧みにガラスに穴をあけている。 やがてパリンという音と共に丸い穴がうがたれ、手袋をはめた手がノブを回した。  人影が静かに入ってくるのを、ジェニファーは息を止めて感じ取っていた。
  これまでの19年の人生で、こんなにわくわくしたのは初めてだった。 まるで噂に聞くインドの黒豹のようになめらかに、影は部屋を横切った。
  布製の衝立を指でわずかに動かして、ジェニファーは片目で様子をうかがった。 暗闇に慣れた眼に、すらりとした姿が音もなく動き回っているのがはっきりと捕らえられた。
  黒い影はまっすぐベッドに向かい、足元の方の布団を上げて、台を手で探った。 熟練した手はすぐに、何かを見つけ出したらしかった。
  影が白いものを取り出した、まさにその瞬間、ジェニファーは衝立を動かして、姿を現した。
  影の動きが止まった。 静止している黒い姿に、ジェニファーは低いが張りのある声で言った。
「やっぱりあなただったわね」
  影はゆっくりと戦利品をベッド脇のテーブルに置いた。 それからジェニファーに向かい合い、ささやき声で尋ねた。
「来るとわかっていたんだな」
「そうよ」
  愉快そうに、ジェニファーは答えた。
「あなたがここに来るように、ちょっと仕組んでみたの。 やはり来てくれたわ」
「それで?」
  相手は落ち着いて尋ねた。
「かくれんぼするのが目的じゃあるまい? 何が望みだ? オレの計画をぶちこわしたいのか?」
「いいえ」
  喉がふるえるのを感じながら、ジェニファーは告げた。 ここ数日、朝から晩まで考えつづけていたことを。
「こわしたくはないわ。 何なら少し手伝ってもいい。 そのかわり」
「そのかわり?」
「私のものになって」
  影は数秒間動かなかった。 それから、クックッと笑い出した。
「それなら昼間に堂々と言えばいいじゃないか。 地方きっての美しいお嬢様の誘いを、断る男なんかいないのに」
「私は今のあなたがほしいの。 昼間のじゃなく」
「ああ、秘密の恋人か」
「そうよ」
  ジェニファーは懸命に息を吸い込んだ。 喉が焼けるような気がした。
「あなたのところに連れて行って。 今夜一晩。 いいえ、1時間。 30分でもいいわ。 それ以上は無理ね、きっと。 人目につくから」
「とんだ不良お嬢様だ」
「優等生にはもうほとほと嫌気がさしたの」
  影は優雅にお辞儀した。
「それでは、こちらへどうぞ」
  ジェニファーも負けずに膝を折って一礼し、男の手を取った。 ドアをそっとあけて周囲を見渡し、誰もいないのを念入りに確かめてから、ジェニファーを片腕に抱き込んで、男は素早く階段を上がっていった。
 
  それより15分ほど前、ヘンリーは暗闇で影と対決していた。 人の気配を感じて振り返ったとたん腕を殴られて、燭台は床に落ちて消えていた。
  相手は身をかがめてしなやかに動いていく。 ヘンリーに、窓へ行く逃げ道をふさがれまいと、両手を広げて牽制しながら、カニのように横這いしていた。
  その手に握られているものが、弱い月の光に反射して、きらっと光った。
  ナイフを持ってる――ヘンリーの表情が引きしまった。 そして、さっきのお返しとばかり、そばにあったスツールを不意に投げつけた。
  スツールは正確に相手を襲った。 影は腕を押さえてよろめき、たまりかねてナイフを落としてしまった。
  夜目にも銀色に光るナイフは、すべってヘンリーの足元まで来た。 いそいで拾い上げようとするヘンリーの前に、そうはさせじと影が詰めよせてきた。
  とっさにヘンリーは、拾ったナイフで相手を払った。 ザクッという鈍い音がして、敵は飛び下がった。
  腹か胸を切っちまった――ヘンリーは青ざめた。 相当な手ごたえがあったのだ。 部屋は血の海かもしれないと思うと、気分が悪くなった。
  怪盗は二歩後退した。 それから不意に、まったく唐突に、窓の外の空間に姿をかき消した。
 

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