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星並べ 20


 いったんトビーに送られて駅に入ってから、彼が立ち去る後ろ姿を見届けて、エドナはこっそりプラットホームを抜け、反対側から外に出た。 どうしても確かめずにはいられなかったのだ。 その、レオン何とかいう舌を噛みそうな名前の高官に付き従っている書記官の顔を。
  十中八、九別人にちがいなかった。 それでも、人違いだと確認したくて、エドナはオペラハウスに行き、列に並んで天井桟敷の券を買った。
 
  ロビーの入口付近でさりげなくたむろしていると、開演20分前になって黒光りする車が数台、道に横付けになって、中から正装した男たちが次々と現れた。 新聞やニュース映画で見覚えのある政府の要人たちが5人ほど、取り巻きと共に入ってきて、葉巻やパイプの匂いを振りまきながら場内に消えた。
  それから、別の一行がやってきた。 油断ない様子の護衛3人に守られている小太りの男だ。 頬が赤く、口元には笑みがたたえられ、まるでサンタクロースのようだった。
   間もなく小走りでその一行に追いついてきた若い男を一目見て、エドナは雷に打たれたようになった。
 
  整髪料をつけてきちんとオールバックにして、彼の金髪はほとんど黒く見えた。 鼻下には口髭をたくわえ、眼に片眼鏡をはめこんでいる。 手には白いハンカチを持ち、時折り顔に当てては苦しげに咳をした。
  サンタクロース男が振り向いてドイツ語で話しかけた。 金髪青年は顔を真っ赤にしてむせ返りながら、短く返事をしていた。 たぶん、風邪は大丈夫か、と訊かれて、平気です、とかなんとか答えたのだろう。
  周りはどんどん客席に入っていく。 次第に人ごみが減っていくが、エドナは足ががくがくして、強くしびれた後のように動けなくなっていた。
  なんて大胆で……むちゃくちゃなことを! 見事な変装だったが、つい数時間前まで向き合って話していたエドナにはすぐわかった。 その金髪青年は、トビー・パーカーその人だった……!
 
  自分にそっくりだという書記官に、トビーはどうにかして入れ替わったのだ。 それではあの、人のよさそうなサンタクロース顔が、ヘレン殺害を命令した冷酷な悪人なのか――エドナは柱の後ろに隠れるようにしながら、一行がホールに吸い込まれていくのを茫然と見送った。 
  少し柱にもたれて心を落ち着かせた後、エドナは階段を登って天井桟敷に行った。 オペラハウスの照明は雰囲気を出すために照度を下げてあって、そう明るくはない。 風邪を引いたことにしてハンカチで顔をかくせばばれないだろうと、トビーは計算したのだろう。
  確かに今のところはごまかしが効いているようだった。 だが、もし正体を知られれば、相手が相手だ。 おそらく命を失うことになる。 トビー、あなたドイツ語が話せるの? とエドナは胸が縮む思いで心配した。
 
  やがて場内が一段と暗くなり、指揮者が現れて、大きな拍手に迎えられて丁寧に一礼した。
  そして、演奏会が始まった。
  エドナは、曲を聴くどころではなかった。 顔がのぼせて熱を持っているのに、手先は冷たくかじかんだ。 様々な連想がスライドのように次々と頭に浮かび、目がくらんだ。
  下の特等席ではどうなっているのだろう。 トビーがすり代わった相手の書記官は今どこに。 いったいトビーは、こんな大勢の人の真っ只中で、どうやって決行する気なんだろう……
  オーケストラは『ロミオとジュリエット』を演奏し終え、『1812年』に入った。 挿入されたロシア国歌が流れ、ドラムが勇壮に響く。 前の手すりを占領した若者たちの間に首を突っこんで、エドナは舞台ではなく、真下の席を見下ろした。
  シンバルが大音響で打ち鳴らされた。 その直後、燕尾服姿の男が一人、すっと立ち上がり、急ぐ様子もなく静かに通路を歩いていくのが見えた。 口元にハンカチを当てているので、それがトビーだと直感したエドナは、大急ぎで桟敷を飛び出し、すべるように広い階段を駆け下りた。
  変装したトビーが回転ドアを出て右に曲がるのが、目の隅にちらっと入った。 後を追ってエドナがドアに入りこんだのとほぼ同時に、背後から乱れた足音が近づいてきた。 とっさにエドナは判断した。 逃げたり隠れたりしたら一味だと思われる。 ちょうど正装の男性が遅れて入ってきたのを幸い、その後をついて逆に外から入ってくる素振りをした。
  客席のドアから2人の男が躍り出てきた。 レオンハルト・シュタインメッツァーの護衛たちだ。 2人はドアに突進し、まだエドナが入りきらないのに強引に押して、あやうく中に挟んでしまうところだった。
  怒ったふりをして、エドナは叫びたてた。
「痛い! 何するの!」
  騒ぎに気がついた案内係が走ってきた。 男たちはドイツ語でわめきたてたあげく、身分証明書を見せつけ、ようやくドアをこじ開けて二手に分かれ、血眼で駈けていった。
 
  エドナは彼らの後をついてもう半回転し、目立たないように外に出た。 そして無理に急がずに右に歩いていった。 この辺は土地っ子のトビーには庭と同じだ。 逃げ道はいくらでもある。 あの護衛たちの鬼のような顔からみて、レオンハルト暗殺は見事に成功したらしかった。 後は上手に逃げおおせられれば……
  四つ角にさしかかったとき、いきなり腕がエドナをつかみ、もう片方の手が口をふさいで、木戸から建物の中に引っ張りこんだ。 とっさのことで抵抗する間もないうちに、耳元で鋭くささやかれた。
「俺。 トビー」
  音を立てないように、トビーが木戸を閉め切った直後、外を荒々しい足音が通り過ぎていった。
 
  戸に素早く鍵をかけた後、閉口したときの癖で帽子をあみだにずらすと、ランプを壁にかけただけの暗い廊下で、トビーはエドナに指を一本立ててみせた。
「来るなってあんなに言ったのに!
  奴らを挟んで、逃げる時間を稼いてくれたことはありがたいと思うよ。 だがすぐ出てきたんじゃ、また見られたときに怪しまれるじゃないか。 トーシローのすることは半端で困る」
  わずかの時間に、トビーはすっかり着替えて、近くの青物市場で使う作業衣を身につけ、よれよれのキャップを被っていた。
  エドナは彼の袖を掴み、押さえた声で問いかけた。
「そっくりの書記官と入れ替わったのね?」
「そうだよ」
  トビーは満足げに笑った。
「誰も気付かなかった。 大成功だぜ」
「その人、今どこに? まさか、始末しちゃったとか……」
  黒雲のような不安に包まれて、エドナの声はかすれた。 トビーはチッチッと舌打ちした。
「命令で動く下っ端なんか殺さねえよ。 疑うなら見せてやる。 こっちだ」
  ランプを手に取ると、トビーはエドナをうながして廊下を歩き出した。
  そこは古い倉庫だった。 今では使われていないらしい。 埃だらけの床に、点々とふたりの足跡がついた。 トビーが用心深くその足跡をかきならしているので、エドナも真似をして誰が通ったかはっきりしないようにした。
  やがてトビーはぎしぎし音をさせながら階段を下りていった。 下は地下室になっているらしい。 なんだか甘ったるい匂いがしてきたので、エドナは鼻をひくひくさせた。
  段の途中で振り返って、トビーが言った。
「クロロフォルムだよ。 書記官を眠らせるのに使ったのさ」

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