車の中で、財布から抜き取った紙片を渡しながら、リリーはトビーに注意した。
「これ、ラブレターじゃないわよ。 数字とアルファベットがめちゃくちゃに並んでるだけ」
「えっ?」
ぎょっとしたトビーはその紙を引っつかみ、中を一目見て呻いた。
「畜生!」
それから大急ぎで車から出て手動式のハンドルを前部に差しこみ、勢いよく回してエンジンをかけた。 そして運転席に飛び込むと、リリーに早口で叫んだ。
「ちょっと急ぐ。 しっかり掴まってな」
トビーは普段車が通らないような小路を巧みにすり抜け、遠回りしてリリーを下宿に送り届けた。
「できるだけ早く女の服に着替えろ。 すぐに出て花かなんか売ってアリバイを作っとけ。 俺と知りあいだなんて一言も漏らすんじゃないぞ。 それから、これ」
ポケットからくしゃくしゃの札束を取り出すとリリーに押し付けて、あっという間にトビーは車と共に姿を消した。
2日後、ヘレンの死体がテムズ川から引き上げられた。
1ヶ月近く、リリーはおびえて暮らした。 あの紙切れは、よく考えると暗号だったらしい。 トビーは騙されて、何か重大な機密に関わってしまったのだ。 あの日、用心して男の子に変装して本当によかった、とリリーは何度も思った。
ロンドン、パリ、ウィーン…… 大都会はどこも、スパイ活動と陰謀が渦を巻いていた。 戦争中ロシアに無理難題を押しつけたドイツが、今は容赦ないヴェルサイユ講和条約に痛めつけられ、ランドセル一杯の札でパン一切れしか買えないという超インフレに泣いている。 敗戦国だけでなく、長く続いた戦争のせいでヨーロッパ全体が貧しくなった。 そして、疑い深くなった。
結局、リリーの身辺には何も変わったことは起きなかった。 トビーは28ポンドという大金を残して消えてしまった。 今のところ彼に似た若い男の殺人事件は起きていないので、うまく逃げおおせればいいが、とリリーは願っていた。
しかし、この事件は、リリーの気持ちにひどい重荷を負わせることになった。 トビーのような目から鼻に抜けるような都会ッ子でさえ騙し、利用する勢力がこの世にはいるのだ。 24になったばかりの女の細腕で、かわいいエルシーを守り抜いていけるだろうか。
秋からエルシーは学校に入る。 片親で、もしいじめられたら。 もし自分が病気になって、養ってやれなくなったら。 もし……もし自分が、警察に掴まったら……
たまらなくなって、リリーはぐっすり眠っているエルシーを起こさないようにそっとベッドを離れ、小さな木の箪笥に近づいた。
がたがたする引出しを開けて、リリーはハンカチで厳重にくるんだ四角い物を取り出した。 それは、たった一枚残しておいた、ブライアン・マーシュの写真だった。
大人になったエルシーが父親の顔を知りたいと言ったときに、見せようと決めて取っておいた写真を、リリー、つまりエドナ・シーウェルはしばらくぶりに眺めた。 2人で撮影してもらってから6年ちょっとしか経っていないのに、そのモノクロ写真はセピア色に変わりかけていた。
写真の中のふたりは、どちらも笑顔だった。 未来に待っている黒い影などみじんも知らない底抜けの明るさで、肩を寄せ合って笑っていた。
ほんとにトビーに似てる――リリーは震える息を吸い込んだ。 息をするたびに胸が痛んだ。
泣かないように口をぎゅっと結んで写真を裏返すと、そこには1つの住所が書いてあった。
『○○郡レインフォート町デンマン通り2−17』
それはブライアンの実家の住所だった。
写真を見てから2日後、リリーは大家に、2,3日旅行に出ると伝えて、エルシーと共に汽車に乗った。 初めて汽車の旅をするエルシーははしゃいで、座席でポンポン飛び上がったり、窓を開けて危険なほど身を乗り出したりしていたが、リリーは強張った表情でじっと考えにふけっていた。 その心には大嵐が吹きあれていた。
これからすることがうまく行っても、失敗しても、先には悲しみだけが待っているような気がしてならなかったのだ。
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