表紙へ行く

星並べ 12


 

 翌日、火曜日の朝8時半、リリーがニッカボッカーにチェック模様のハンチング帽という姿で『ダニエルズ』の前に現れると、すぐにやってきたトビーは帽子をはねあげて低く口笛を吹いた。
「こりゃあお見事。 あんたも役者してたのかい? どう見ても、かわいらしい男の子だぜ」
「シティのそばは私のショバじゃないから、仲間にばれたらまずいの」
「ああ」
  なるほど、とうなずいて、トビーは面白そうにリリーの服装をじろじろ眺めた。
「よく一緒にいる背の高い子から借りたのか?」
「そんなこと、どうだっていいじゃない。 早くすませよう」
  そっけなく言うと、リリーは乗り合いバスの駅に向かいかけた。 とたんにトビーが袖を取って引き止めた。
「こっちだ。 車がある」
「またタクシー? ぜいたくだし、運転手に顔覚えられてチクられたらまずいよ」
「ちがう。 知り合いのポン引きから借りたんだ」
「運転手つきで?」
「俺が運転するの」
  びっくりして、リリーの口が開いた。 1920年当時、モリス自動車などのおかげで大衆も車になじんできたとはいえ、まだまだ運転技術を持つ者は少数派だったのだ。
「ちょっとかっこいいだろ」
「……ちょっとね」
  ベージュと焦げ茶の車体も格好よかった。 少し目立ちすぎるほどで、トビーはその車を目的地につけるとすぐ、わき道に隠した。
「これはまずいことが起きたときのトンズラ用だからな」
  リリーはうなずき、逃げるときに勘違いしないように道の番号を頭に刻みこんだ。
  隅から隅まで知りぬいた縄張りではないので、どうしても緊張する。 リリーは唇をなめ、帽子を被りなおした。 そのとき、道の向かい側でトビーがさりげなく、銀色の煙草ケースを取り出すのが見えた。
  それが合図だった。 トビーの目線を追うと、やせぎすの中年男が、きびきびした足取りでステッキ片手に歩いてくるのが視野に入った。
  ふっと嫌な予感がした。 リリーの第六感はよくあたるのだ。 この油断なさそうな男にはかかわらないほうがいい、と本能が告げていたが、その不安を、道の反対側にいるトビーに伝える手段がなかった。
  トビーはご機嫌なほろ酔い男の芝居をして、斜めに道路を横切った。 同時にリリーも動き出した。 ポケットに手を突っ込み、何か落ちていないかと下目使いに道路の端を調べながら歩いた。 これは見慣れたラッキー・ジョーの仕草を巧みに真似たものだった。
  次第に2人は獲物を真ん中にして近づいていった。 そして遂に、トビーが男にぶち当たった。
「いやあ、失礼」
  どこでどうやったのか、男の胸ボタンにトビーの懐中時計の鎖がからみついた。 ふたりがもつれ合ってごちゃごちゃと鎖を外そうとしていたほんの数秒間に、リリーは横をすっと通り過ぎた。 それで仕事には充分だった。
 
  歩道に上がって1ブロック歩いたところで、リリーは上品に着飾ったヘレンの籠に、抜いた財布をすべりこませた。 そのままヘレンはまっすぐ進み、まだ鎖をほどけない男の横にかがみこんで、財布を拾う真似をした。 そして、鈴を振るような声で呼びかけた。
「まあ、これはどちらのお方のものですか?」
  男とトビーは同時に振り返った。 すぐにトビーが懐をごそごそやって財布を取り出し、丁重に言った。
「僕のはここにありますよ、奥さん」
  男は慌てて手を差し出して、ヘレンが持っている黒革の財布を受け取った。
「ありがとう。 なくしたら大変なところだ」
  ヘレンは優雅に微笑し、ぜひお礼を、と男が食い下がるのを手を振って断って、歩み去った。

  すべては完璧だった。 しかし、仕上げを誤った。 ミスをしたのはヘレンで、なぜか待ち合わせの小路に来ず、したがってこっそりと置いてあった逃走用の車にも乗らなかったのだ。
  このことが、彼女の命取りになった。


表紙目次前頁次頁

Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送