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星並べ 8


 その男は寸詰まりのチェックの上着を着て、配給品のぶかぶかな靴をはいていた。 見ていると気の毒なほど不器用で、スタンドの新聞を受け取ってからポケットを探って財布を出し、苦労して開いたはいいが、今度は小銭を取り出せないで一旦新聞を台に置いて、もぞもぞと中を調べていた。
  おのぼりさんの典型、という風に見えた。 リリーの横で待機していたラッキー・ジョーが舌打ちするほど、たやすい獲物だった。
「ねえちゃん、あれはトーシローにだって取れるタマだぜ」
  リリーは答えず、光る眼で男の動きを追っていた。 いつもなら指先と財布に集中する視線が、男の顔に釘付けになっている。 たしかに見とれても無理はない顔立ちだった。
  男はまだ若く、すっと鼻筋が通っていた。 唇はやや薄く、眼は碧い。 それもそんじょそこらの碧さではなく、ドーヴァーの崖に打ち寄せる波のように、紺色にわずかに銀のしぶきが混じった不思議な輝きを放っていた。
  ジョーは待ちくたびれて体を揺すった。
「あんなのチョロいって。 俺が3秒で掏ってくるよ」
「待って」
  低い声で言うと、リリーは少年を壁に押しつけた。
「私が行く」
「なんで!」
  ジョーは不満たらたらで声を上げた。
「あのカッペは俺のもんだって! 俺が見つけたんだから!」
「うるさいね」
  小声でどやしつけると、リリーは素早く当りを見回し、さっと花かごを持って、気取って歩きながら出ていった。
  ピカデリー広場はリリーの縄張りだ。 ここで網を張る少年スリは、すべてリリーの息がかかっている。 見たところまだ20歳そこそこだが、他のスリ団のボスのようにピンはねしないし、目端がきいてすばしっこく、警官を見分ける勘がすごいので、地回りのヤクザ達にも一目置かれていた。
  リリーはまっすぐ獲物のところへ行ったりしない。 まず広場を半周して、こぼれるような笑顔で小さな花束を売りつけて回った。 愛くるしくて夢のある顔立ちなので、花売りだけでも充分食べていけそうなほど、花束は次々と売れていった。
  男はまだ新聞売り場でもたもたしていた。 今度はくしゃくしゃになったマフラーを地面に落としたりしている。 見かねた売り子の少年が、風に飛ばされる前に拾ってやっていた。
  ようやく新聞を買い終わり、男はゆっくり歩きながら紙面を広げた。 両脇が大きくあいている。 無防備そのものだ。 リリーは彼の横をすり抜けながら、ひらめくように指を動かした。
  その手が、ぱっと何かにはさまれた。 リリーの体が一瞬縮んだ。
  耳元で、やわらかい声が楽しげに言った。
「こんちは、リリー。 噂よりずっと美人だねえ」
  ゆっくりゆっくり息を吐くと、リリーは一言だけ言った。
「畜生」
  男は笑った。 明るい、くったくのない声で。
  首を曲げて5センチ離れていない男の顔を睨みつけ、リリーはそっけなく言った。
「小汚い手を離せ。 手錠かけるんならさっさとかけろ」
「おっと、俺はマッポじゃないよ」
  男は更に楽しげになった。
「リリーちゃん、そうふくれないで。 罠にかけたのは悪かったけど、どうしてもあんたが必要なんだ。 頼むよ」
「まず手を離してから話せ」
「話してから離す」
  細身に見えるが、男は見かけよりずっと力が強かった。 2度振り放そうと試みたがびくともしなかったので、リリーは脱走をあきらめ、余力を蓄えておくことにした。
  一見やさしくエスコートしているように見せながら、男はじりじりとリリーを道の方へ押しやっていた。
「仕事を頼みたい。 リリーちゃんならあっという間にできることなんだ」
「いやだね。 それにチャン付けで呼ぶのはやめろ」
「じゃ、かわいいリリー」
  ビロードのような声で、男は呼びかけた。 とたんにリリーは顔をゆがめ、満身の力で男の手を振り払った。
「ふざけんな!」
  憤然と歩み去ろうするリリーの腕を、男が掴んだ。 もう彼は笑っていなかった。
  ぐっと容赦なく、コーヒーショップのレンガの壁にリリーを押し付けると、男はドスのきいた声で言った。
「わかってないようだな。 断ることなんかできないんだよ」


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