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星並べ 5


 2日後、ブライアンは故郷のレインフォートに帰ることになった。 ロンドンにとどまりたいと言うのをエドナが一生懸命説得して、ようやく里帰りする気になったのだが、駅に見送りに来たエドナを見ると、人前もかまわず固く抱きしめて、なかなか離そうとしなかった。
「帰りたくないなあ」
「お母様、お一人なんでしょう? 帰ってあげなきゃ。 あなたが親孝行すれば、きっと結婚を許してくださるわ」
「うん」
  それでもブライアンは、エドナの襟飾りを直したり、手を取ってキスしたりして、かたときも離そうとはしなかった。
  やがて発車のベルが鳴った。 ぎりぎりまでホームにとどまっていたブライアンは、車掌にうながされて、ようやく動き出した車両に飛び乗った。 そして、落ちそうになった麦わら帽子を被り直すと、哀しげに叫んだ。
「来月には行くから。 必ず行くからね!」
  そして、微笑んで手を振るエドナに、見えなくなるまで腕を振り返していた。


  それから毎日のように、手紙が来るようになった。 エドナはこれまで、あまり字を書くのが好きではなかったが、想いのこもった文面を長々と綴ってくるブライアンに応えたくて、帽子店の仲間や店主に文章を直してもらいながら、せっせと返事を書いた。 彼に少しでも追いつきたいと願い、エドナはいろいろ本や新聞を読み、すてきな表現にぶつかると、メモする癖がついた。 その効果が次第に出て、ブライアンがまた汽車に飛び乗ってやってきた7月の末には、ずいぶん手紙を書くのが楽になっていた。
  駅で再会したとたん、ふたりは激しく抱き合い、しばらく動かなかった。 満ち足りた幸福感が全身に広がって、エドナは叫び出したいほどだった。 愛し、愛されるって、こんなに素晴らしい。 このうれしさを世界中に分けてあげたかった。

  ブライアンは、夏山登山をすると言って家を出てきたらしかった。 君と会うと正直に言いたかった、と呟くブライアンに、エドナは明るく言い返した。
「来年になって、あなたが卒業して立派な仕事についたら、私は胸を張ってあなたの奥さんになる。 いろんなこと夢見るのよ。 ふたりの部屋にどんなカーテンをかけようか、ナプキンには苺の刺繍がいいかな、マットにはハート模様をつけちゃおうか、なんて」
「犬を飼っていいかな。 大好きなんだ」
「ええ、いいわ! 私も好き!」
「うんと大きなやつ、ウルフハウンドとか」
「ウルフ? なんだか怖そう」
「気立てがいいんだよ。 子守りをするっていうし」
  子守り――エドナはほんのり赤くなった。 ふたりの赤ちゃんか…… どんなにかわいいだろう。 こっそり一人笑いしながら、エドナはブライアンの腕に手を巻きつけた。 ふたりは足がからむほど寄り添って、夏の光がまぶしい街に、軽い足取りで歩み出た。


  夏になると、嫌なニュースが巷を揺るがせた。 前からくすぶっていたバルカン半島という『火薬庫』が、とうとう爆発したのだ。 オーストリア皇太子夫妻暗殺をきっかけに戦闘が起き、ヨーロッパの主だった国々が次々と参戦し始めた。
  あれよあれよという間に戦争は拡大し、イギリスをも巻き込んでしまった。 10月に新学期が始まったが、教授たちも学生も、勉学どころではない雰囲気だった。 若者たちは続々と兵役につき、カーキ色の軍服姿で出発していく。 鉄道駅はみな、出征兵士と見送る家族で一杯になっていた。

  12月になっても、ブライアンは戦意高揚の合唱に耳をふさいで、必死に勉強し、毎週エドナと会いつづけていた。 本来なら母一人子一人のブライアンに出征の義務はないはずだ。 だが、戦時色一色に染まってしまった世の中は、若く健康なブライアンが戦場に行かないのを、臆病からだと非難し始めた。
  そして遂に、寮の部屋に不快なものが匿名で、封筒に入って配達された。 卑怯者の象徴である白い羽根だ。 それを知ったエドナは泣いて怒ったが、ブライアンは既に覚悟を決めていた。
  冷たい雨が針のように降り注ぐ中、傘の下で体をすぼめるようにして、二人は裏町の小さなホテルに入った。 あまりこういうところには行きたくなかったのだが、別れの前に二人きりでゆっくり過ごせるのは、こんな隠れ家しかなかった。
  狭く硬いベッドの上で、恋人たちはキューピッドとプシュケの像のようにぴったりと身を寄せ合い、一晩中離れようとしなかった。 首筋にキスしながら、ブライアンは自分に言い聞かせるように幾度も繰り返した。
「戦争はすぐ終わるさ。 たぶん半年ぐらいで。 絶対無事だから。 怪我もしないで帰ってくるからね」
「必ずよ」
  エドナも限りなく念を押した。
「絶対に帰ってきてね。 たとえ怪我をしても、手や足がなくなっても、必ず帰ってきて。 待ってる。 あなただけを待ってる!」

  大学生のブライアンは、二等兵ではなく下級将校として軍隊に入った。 故郷の町から出征する彼を、エドナは中央駅まで見送りに行った。
  もうすべて語り尽くして、話すことはないのに、まだ言い残したことが山ほどあるような気がした。 だが何も口から出てこない。 じっと手を握りあったまま、時だけが過ぎた。
 混雑する列車で座っていけるように、今度は早めに乗り込んで座席についたが、窓際の席を確保したブライアンは、すぐ窓を押し上げて手を伸ばし、再びエドナの手を求めた。
  やがて列車は静かに動き出した。 それにつれてエドナも足を速め、だんだん早くなる列車の横を小刻みに走った。
  とうとうついていけなくなって、手が離れた。 ブライアンが必死で帽子を振るのが目に入った。 だが、後に続く車両の下から白い蒸気が勢いよく吹きだしてエドナの視界を遮り、遠ざかっていく汽車の黒い車体だけが影となって、次第に闇に消えていった。


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