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ホームランその9

   孝美の肩がぴくんと緊張した。 横を見なくてもわかった。 森本だ。
 静かで、ちょっとトロいとさえ感じられる声が、話し続けた。
「今朝、起きるときにさ、左手ついてグッと起きあがってたんだ。 顔洗ってるときにも全然意識しないで左手ガンガン使っててさ。
 鞄に物詰めてるときに、やっと気付いたんだ。 そうだ、オレ昨日まで肘が曲がらなくて全然力が入んなかったんだったって」
「よかったね」
 孝美はやっと、固い声で相槌を打った。 すると森本はすっと前に回りこんで、孝美の足を止めさせた。
「午前の授業フケて、医者に行ってきた。 こんなはずないって何度も言われて、スキャン撮った。 そしたらさ、筋肉が戻ってるだけじゃなくて、ネズミが小さくなってたって。 なんか、融けてる感じで丸くなってるって。
 オレ、すっげー感謝してる。 山ほど。 うまく言えないけど」
「わかんないよ、私」
 森本があまり嬉しそうなので、孝美はかえって落ち着かなくなって、横に避けて歩き出そうとした。
 今度は声だけが追ってきた。
「勇気出してよかった。 お返しなんか期待してなかったのに、物凄いおまけ付きで返ってきたなって」
 勇気? 孝美の足がぴたっと止まった。
 森本の声が、少し小さく聞き取りにくくなった。
「山之内ってさ、元気だろ? 裏方の仕事でもきちんとやって、手抜かなくてさ。 いいやつだなあと思ってたんだ。
 でも打てないからマネージャーにされそうだって聞いて、なんか気分悪かった。 オレは故障だからしょうがない。 でも山之内はちょっと直せばやれるのに」
 孝美はゆっくり振り返った。 声が喉を通るとき、微妙に震えた。
「それで、教えてくれたの?」
 森本はうなずき、ふっと微笑した。 照れたその表情に、孝美は強く衝かれたようなショックを感じた。
「自分がものすごく大変なときに、私にそんな……」
 森本って何て心が広いんだろう。 孝美は情けなくなった。 私はレギュラーになれないだけで荒れていた。 人のことまで考える余裕なんてなかった。
 三歩で森本の近くまで戻ると、孝美は気持ちを一杯にこめて言った。
「ありがとう。 私も勇気出して手かざししてみて、よかった」
「そのことだけど」
 森本は丸っきり何でもないことのように口にした。
「別に気にしなくていいんじゃないの? 自由に使えるんだろ? つまり、力を出そうと思ったときだけ出せるっていうふうに」
「うん」
「じゃ、やりたくなきゃやらなきゃいいんだ。 これまでと同じ」
「そうだね」
 そうなんだ、早く走れるとか手先が器用だとかいう普通の能力と同じなんだ、と孝美は初めて思うことができて、体から余分なりきみが消えた。
「オレだってさ」
 森本は足元に目を落とした。
「男とか、他の女とかだったら欠点教えたりしなかった。 たまたまあそこで山之内に会えたからさ……」

 あれ? そっち方面では少し鈍い孝美にも、ようやくピンと来た。 もしかして、森本は……
「そんで、どっちも部活に戻れたことだし、まだオレ達ニ年だし……あの、高二って一番いい時だって親が言うんだよ。 練習だけじゃ生きがいがないっちゅうか……オレさ」
「は?」
 森本が、ぱっと顔を上げて、必死の面持ちで孝美を見つめた。
「青春したい! 付き合ってくんない?」


 自転車を隠したのは、森本だった。 野球部の倉庫にしまいこんで、盗まれないように鍵をかけたと言うので、孝美は噴き出してしまった。
「盗んだの、森本じゃん!」
「オレは保管したの。 明日きちんと返すから」
「そこまでやるか?」
「やるよ。 必死だもん」
 孝美は真面目な顔になって、森本を見つめ返した。
「私でいいの?」
 森本は言い切った。
「山之内でなきゃ、いらない」
 そこまで言ってくれるか――孝美の顔が、どうしようもなくゆるんだ。
「じゃ……手つなぐかね。 とりあえず」
「はあ、とりあえずか」
 それでも森本は、すごく幸せそうだった。
 二人は指をからめ、暮れかかった路を歩き出した。 なんだか浮き上がりそうに、足が軽かった。

〔終〕





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