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ホームランその8

   翌日、つまり金曜日の六時限は、古典だった。 担当の男性教師がおとなしく、声が小さいせいで、ほとんどの生徒は授業を聞かず、特に教室の後ろ半分は私語の嵐になっていた。
 《噂話の宝庫》の小瀬が隣り合った席の三人に耳打ちしたことは、あっという間にクラス中に広がった。
「野球部の森本、学校止めるの止めたって」
「月曜の練習から参加するんだってよ」
「やったね!」
 野球部の追っかけをしている佐竹奈那子〔さたけ ななこ〕が、うれしさのあまり声を立ててしまった。 教卓から上木〔かみき〕先生がにらんだが、誰も気にしなかった。
「これでセンバツ出場は決まりじゃん! ワクワク」
「結局なんだったの? やっぱり岸との喧嘩?」
「なんか、故障だって言われたらしいよ。 でも医者の誤診だったんだって」
 孝美は教科書を机に立てて、その陰でチョコロールを食べていた。 口の中に何か入れていれば、話しかけられても答えなくてすむ。 だが耳は敏感になって、ヒソヒソからガヤガヤになった話をすべて聞き分けていた。


 放課後、部活の練習前に、顧問の箱山〔はこやま〕が部員をすべて集めて、二列に並ばせた。
「今日は正と副、それにマネージャーに決まった者を発表する」
 正とはレギュラーとその控え、副はその他大勢、そして、マネージャーは選手になれなかったという宣告を意味した。 部員たちはしんと静まりかえり、箱山の発表に注目した。
 まずレギュラーの面々の名前が読み上げられた。 これはいつものことだ。 だがその後にすぐ、これまでなかったメンバーが告げられた。
「山之内孝美、ファースト」
 準レギュラーの、それも一番手! 驚いた孝美が顔を上げるより前に、周りが肩を叩いたり乱暴にこづいたりして祝福した。
「すっげー」
「最近打つもんね。 もともと守備はよかったし」
「静かに!」
 箱山が怒鳴った。 みんな慌てて前を向いた。

 発表の後で、いつも通りの練習が開始された。 だが、孝美の予定は大幅に変わった。 バッティンク投手の手伝いや道具の入れ替えを免除され、練習の順番が早くなり、時間も長く取れるようになった。
 それでも孝美は、最後まで残って副の連中と後片付けを一緒にやり、グラウンドにいつも以上の感謝をこめて一礼して、薄暗くなってから部室を後にした。 胸には激しい喜びに混じって、小さなとげのような不安が見え隠れしていた。
 森本は治った。 本当にあの短い時間で筋力を取り戻し、肘の痛みから解放されたのだ。
 うれしいと素直に思うと同時に、自分の力が怖かった。 ばれたときの騒ぎを思うと、気分が悪くなった。 

 いつも通り自転車置き場に行って、孝美は驚いた。 愛用の自転車がない。 ごく普通のママチャリで、スーパーで一万円ちょっとで買ったものだが、いろいろ改造して乗りやすくしていたのに。
「誰だよ、ほんとに! 勝手にパクるんじゃねーよ!」
 疲れてるのに歩きか…… がっくりしたが、今日はいいことが続いたので反動が来たと思うことにして、孝美はぼそぼそと歩き出した。
 裏門を出て百メートルぐらい行ったところで、後ろから走ってくる足音を聞いた。 別に気にも止めなかったが、その足音は横で急に速度を落とし、並びかけてきた。
 だいぶ耳に慣れた穏やかな声がした。
「足、ずいぶん速いな」



写真:NOION
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