表紙
表紙目次前頁次頁総合目次


ホームランその6

   だるくて閉じかけていた孝美の目が、ボールより真ん丸く見開かれた。
 クラス中が色めきたった。
「どうして?」
「なになに!」
「なしてエースが!」
 小瀬は自分が起こした反響の大きさに、ちょっと怯えた。
「えーと、よくわかんない」
「岸と喧嘩したんじゃないの? あのコーチ、熱血っていうより暴力派だから」
 風見という覚めた男子が面倒くさそうに言った。


 この時期だと、夕方の六時はもう薄暗くなりかけていた。 森本に何かあったという話は、放課後にはもう学校中に広まっていて、尾ひれがついて、コーチの岸と殴り合ったとか、他の高校から引き抜かれたとまで噂されていた。
 こんな大変な日に来てくれないだろうな、と、孝美は半ばあきらめていた。 でも、自分から申し出たことだし、柿崎は伝言してくれたそうだし、寺に来ないわけにはいかなかった。
 この前森本が座っていた縁側に腰かけて、足をぶらぶらさせていると、涙が出そうになった。
やめちゃうのか。 もうこの学校を出てっちゃうのか……
「よう」
 のんびりした呼びかけに、孝美は我に帰った。 蓮暁寺に来てからまだ五分と経っていなかった。
 ピョンと高い縁側から飛び降りて、孝美は喉を詰まらせた。
「あ……ありがとう。 森本の言ったとおりにしたら、本当に打てた」
「よかった」
 別に自慢することもなく、森本はさらっと答えた。
 孝美は更に緊張した声音で尋ねた。
「あの、学校代わるって、ほんと?」
「ああ」
 森本は微笑した。 なんでこんなときに笑っていられるの、と、孝美は焦った。
「岸と喧嘩したって……」
「それは嘘」
 ポケットに手を入れて、森本は淡々と説明した。
「肘にできたネズミをかばって投げてたら、筋肉が伸びたんだ。 弾力がなくなるまでになってるから、もう元に戻らないらしい。 これ以上無理すると腕が動かなくなるから、野球は駄目だって」

 孝美の手が、無意識に自分の肘をさすった。 目の前が暗くなるほどの衝撃だった。 他人が聞いてこんなに辛いのだから、本人はどんな思いだったろう。
 森本がいつも通り静かなだけに、よけい孝美は悲しい気持ちになった。 ネズミとは使いすぎで関節にできる軟骨のことで、野球肘ともいい、昔は再起不能と言われていた。 最近は手術で治るが、それでも後遺症が残る場合があった。 だから治療をためらっているうちに、筋肉を痛めてしまったのだろう。

 孝美はもう一度、自分の肘を撫でてみた。 その動作を目にとめて、森本がぽつんと言った。
「山之内の有名なマッサージでも、俺のは治らないな」
 孝美は、ぎくっとなった。
 関西にいる祖母の言葉が、重石のように頭上にのしかかってきた。
『簡単に手乗せしちゃあかんよ。 やるときは手加減せな。 力はできるだけ隠すんやぞ。 さもないと、教祖さまにまつりあげられるか、化け物扱いやで』



写真:NOION
Copyright © jiris.All Rights Reserved
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送