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秘密・10
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-11-
浩輔の耳元で、何かがはじけた。 振り向く前から,誰かわかっていた。 聞き間違いようのないその声……
「中津川」
ごく小さなつぶやきだった。 だが彼女にはちゃんと聞こえたらしく、あっさりと返事が返ってきた。
「あのときはね。 今は遠山鮎美」
どういうことなんだ。 遠山一族と結婚したのか……!? そう思ったとたん、心臓に銃を撃ち込まれたような痛みが走った。
思わず青いベンチにつかまると、ガタンと音を立ててくずれた。 浩輔はぶざまに足をあげて座りこんでしまった。
鮎美は笑わずに、一言だけ言った。
「だから注意したのに」
この子といるといつも自分が真性バカに思える。 浩輔はたまらない気持ちになった。
長い脚を折り曲げて立ち上がりながら、彼はぶっきらぼうに言った。
「遠山先生の葬儀に参列するつもりで来たんだ。 病院の不手際でこんなことになって、父も僕も責任感じてる」
鮎美の顔を見ずに、浩輔はバッグから袱紗(ふくさ)包みを出した。
「父からの手紙と、それに、できれば葬式代を負担させてほしいんだが」
「お手紙だけいただきます」
やや固い口調で言い、鮎美は手を差し伸べた。
自分がどうなったかわからなかった。 気がついたら、毛糸の手袋をはめたその手をぎゅっと握りしめていた。
「結婚したのか?」
鮎美の口が丸く開いた。
「はあ?」
「苗字が変わったって」
鮎美は二度、ゆっくり瞬きした。 それから言った。
「もともと遠山なの。 東京に行く前に、友達に頼んで養女にしてもらったの」
まだ浩輔には事情がのみこめなかった。
「……養女って……」
「私は、遠山一信の妹」
胸に奇妙な動悸を脈打たせながら、浩輔はかすれた声で尋ねた。
「遠山先生の妹さん?」
「そう」
鮎美はうなずいた。 黒いコートに、チェックのマフラーを頭から巻きつけている。 可憐な顔は半分以上防寒具にうずもれていたが、輝く眼は以前と同じだった。
「探しに行ったの、兄ちゃんを。 もっと正確に言うと、兄ちゃんの体を」
二人の目が、久しぶりに真正面から合った。 激情を燃やしつくした後のように、鮎美は淡々と話しつづけた。
「もう生きていないかもしれないとは思ってた。 生きていれば絶対に、這ってでもうちに帰ってくるもの。 約束したんだから。 私と」
何を言ったらいいかわからなかった。 言葉もないというのはこういう状態なのかと、浩輔は思い知った。
「東京で最新技術習って、35になったらここに戻って、二人で診療所をやるはずだった。 せっせと給料貯めてて、もう建物だけなら建つぐらい貯金はあるの」
初めて声が裏返った。 それでも必死に心を静めて、鮎美はしめくくった。
「みんな兄ちゃんは蒸発したと決めていた。 これじゃ警察に行ったって聞いてくれっこない。 自分で調べるしかなかったんだ。
いろんなところに首つっこんで、どんな噂でも聞いた。 病院にナースの空きが出るまでは、関係者を何人も尾行した」
「それで俺をつけてたのか」
惚れられたかと思って格好つけて、タクシー代を払ってやった自分が、浩輔はひどく恥ずかしかった。
そこで鮎美が妙なことを訊いた。
「聡先生、思い出した?」
浩輔は何気なく訊き返した。
「え? 事件のこと?」
「そう」
「まだはっきりとは思い出せないみたいだよ。 たぶんこれからもそうじゃないかな」
鮎美はちょっともじもじして、それから告白した。
「あのね、先生が襲われたの、私のせいなんだ。 誰かが病院の帳簿を不正に操作してるという話を噂で聞いて、若先生に話したの」
浩輔はゆっくり頭をもたげて、わびしい眼で鮎美を見た。
――やはり兄貴か。 頼りにしてるのは――
「俺のほうが言いやすかったろう? なんで兄貴に?」
鮎美は、困ったふうに下を向いた。
「危険かもしれないと思って」
その言葉の裏にある意味を悟るのに、数秒かかった。 浩輔はちょっとぼんやりしていたが、間もなく胸が火のように燃え上がった。 鮎美は兄貴より、俺を守ろうとしたんだ――そう悟ったとたん、さっきから掴んでいた指に、やみくもに力が入った。
「いたいっ」
「ごめん」
あわてて手は離したが、急いで腕を出して引きとめるのは忘れなかった。
「俺のことボロクソに言ったよな」
「あのときはちょっと」
「言ったよな」
「……うん」
「確かに言われたとおりだった」
気抜けするほどあっさり認められて、鮎美はたじろいだ。
「俺は無気力だった。 自信なんてからっきしだった。 でもな、今は少し違う」
「すごいがんばりだったって?」
ごく小さい声で、鮎美がそっと言った。
「がんばるしかなかったんだ。 兄貴は重傷だし、親父は心臓悪いし。 でもあれ、鮎美のおかげだ」
「ちがうよ」
後ずさりしながら、鮎美は首を振った。
「自力でしょ? 絶対自力」
「鮎美のがんばりに刺激受けてたんだ。 だから悪口にも説得力あった」
「もういいよ」
閉口して、鮎美はますます小さくなった。
「消える前に嫌われたほうがいいと思って言ったんだから。 さもないと探されたりしないかなと思って」
微妙な言い方だった。 探してほしかったようにも聞こえた。 浩輔は息を吸い込み、勇気を奮って尋ねた。
「これからどうする?」
「まだ決めてない」
「じゃ……俺に賭けてみないか?」
鮎美の眼が細まった。
「なにを?」
「これから東京で修業する。 金も貯める。 それで35になったら」
「……」
鮎美はなぜか当りを見回した。
「軽く口にすることじゃないと思う」
浩輔は不安になった。
「俺じゃできっこないって?」
「そうじゃないよ」
鮎美は懸命に言った。
「もう立場が違う。 病院で頼られてるんでしょう?」
「兄貴が直れば元通り」
浩輔は明るく言った。 自分でも信じられないほど心が広がっていた。
「でも経営とかいくらかでも経験できてよかったと思うよ。 どこに行ってもある程度やれる自信がついた。 もう遊ぶだけ遊んじゃったし、俺寒いの好きだしな」
鮎美は少し無言だった。
それから意地悪そうに言った。
「スキーできないだろう」
「高校から苗場に行ってたよ」
「スケートは?」
「まかせなさい! インラインからフィギュアまて……はできないけどさ、コーナーワークは華麗だぞ」
鮎美はまた黙った。 唇が震え出したので隠そうとして、横を向くと明るい声を出した。
「その決心、いつまで続くかね」
「続くさ。 鮎美がそばで見張ってたら」
「え?」
思わず振り向いた鮎美に、浩輔は意気揚揚と言った。
「もっと軍資金かせぎたいんだろ? 一緒に東京へ戻ろうな。 俺、初めて兄貴に勝ったんだ。 もう絶対見せびらかしちゃう。 みんなうらやましがるぞ。 やったー!」
マフラーにぐんと顔を埋めて、鮎美は唸った。
「あやしい……」
「まあ見てなって」
不意に浩輔は真面目な表情になった。
「証明するよ。 俺は本気だ」
そして、今度こそ堂々と鮎美を引き寄せ、胸にギュッと抱きこんで、真心を一杯に込めてキスした。
【終】
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