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表紙

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  後で考えると、どうしてがんばり通せたか自分で不思議だった。 おそらく鮎美の言葉が胸に食いこんでいたのだろう。 ここで音を上げたら役立たずだと自ら証明してしまう。 意地で浩輔は取材の矢面に立ち、町村が私物化していた外科のカルテを整理し直して透明にし、それを元に、これまで院長が拒否してきた示談交渉に出向いて、信用回復の努力を重ねた。
 また財政面では、2つの会計事務所に頼んで二重帳簿を統合してもらい、その調査結果を示して銀行からの融資をなんとか継続させた。 最初は馬鹿にしていた事務長の武田も、1ヶ月が過ぎるころには感心して周囲に言うようになった。
「正直あの次男坊があそこまでやるとは思わなかったよ。 尻に火がつくと、びっくりするような力が出るもんだな」
 
  その1カ月の間に、捜査情報が少しずつ明るみに出てきた。 正義感の強い遠山医師は、仲間の噂から斎藤部長の贅沢な生活ぶりを知り,密かに調べていた。 しかし確証を掴んだとき、院長や警察に訴える前に、本人に反省させようとした。 その温情が仇になって、命を落とす結果になってしまったのだ。
  斎藤ひとりなら、そこまでの度胸はなかったかもしれない。 だが、彼には町村という共犯者がいた。 斎藤が真っ青になって相談に行くと、町村はとっさに一挙両得を考えついた。 自分の手術ミスを遠山に押しつけ、逃亡したことにして殺害しようと提案したのだ。 方法は血管への空気注射。 まさか遠山が山奥に埋められているとは夢にも思わない医局員たちは、町村が睨みをきかせると、誤った手術をしたのは誰か、言えなくなってしまった。

 
*〜*〜*



竜巻に巻き込まれたような1ヶ月の間、浩輔はほとんど鮎美と顔を合わせなかった。 座る暇もないほど忙しかったし、意識して避けていた面もあったかもしれない。 病院内はもうアイドルなどとのんびり騒いでいる余裕はなく、鮎美の噂はほとんど流れなくなった。
  したがって、鮎美が辞めたという話が浩輔に伝わってきたのは、彼女がいなくなった一週間も後のことだった。

 
  事件の後処理は徐々に行なわれていた。 しばらく粘っていた町村が遂に自供し、変わり果てた遠山医師を確認しに北海道から出てきた叔父と妹が遺体を引き取っていった。 斎藤の老いた母がテレビ画面で泣き崩れ、親孝行のいい子なんです、と息子を庇う姿が痛々しかった。 一方、町村の家族は早々に姿を消した。

 
  だんだん落ち着いてきて、日常が戻ってくると、男の医者や看護師たちは、鮎美がいないのを寂しがりはじめた。 だいぶ回復してきた聡も、鮎美に会いたがった。
「お礼言いたいし、こんなふうに別れたくなかったな。 挨拶もなしに消えるなんてな」
  毎日かいがいしく見舞いに訪れる雅恵さえ、ある日ぽつんと浩輔に言った。
「あのきれいな看護婦さんね」
「中津川のこと?」
「そう……あの人、やさしかったよね。 若いのに」
「まあ、な」
「ひどいこと言っちゃったから、あやまりたいんだけど」
「もういないよ」
  雅恵はびっくりした。
「いないの?」
「やめちゃった」
「ふうん」
  悲しいのか、ちょっとうれしいのか、雅恵は複雑な顔をした。
 
 
*〜*〜*



  火曜日に、汚名の晴れた遠山医師の葬儀が、地元で行なわれることを、叔父の遠山道隆氏が知らせてきた。 いわば病院のために犠牲になった遠山医師に、強い負い目を感じていた院長は、自ら葬儀に行こうとしたが、動悸が激しくなる症状に見舞われて、あきらめなければならなくなった。 
  再び浩輔に出番が回ってきた。 いつの間にか家族中が彼を頼っていた。 見舞金と哀悼の辞を託されて、浩輔は一人、飛行機に乗った。
 

  単独旅行は別に気にならなかった。 思えば小さいときからほとんどひとりだった気がする。 若々しく華やかな母はいわゆる水商売のひとで、浩輔にさく時間が少なすぎるのを補うように、多すぎる小遣いを与えた。 浩輔が不良にならなかったのは、生まれ持った内省的な性格と、いい隣人のおかげだった。 子供に恵まれなかった隣りの奥さんは、いまどき珍しく浩輔を自分の子のようにやさしく、また時には厳しく、しつけてくれた。
 
  悦おばさんが亡くなってからは、本当に心を開く相手がいなかった。 病院長の愛人だった母が、夫人の死後、正妻に収まったときが、一番つらかった。 悦おばさんと引き離され、3つしか年の違わない、おそらくはいじめっ子の『兄』のいるだだっ広い家に入る――考えただけで寒気がした。 本気で家出の支度をしたぐらいだ。
 

  新しい家庭は、大体が予想通りだった。 それまでたまにしか会ったことのない父親は、相変わらず無口で、家の中は先妻の残した家具で一杯。 長男は仏頂面で父親の後ろに陣取り、目を合わせようともしなかった。
 
  だが、2,3日すると微妙に空気が変わってきた。 兄と同じ中高持ちあがりの学校に転校させられたのだが、そこで浩輔は、聡が陰で自分を庇ってくれているのを、偶然の機会に知った。
  うれしかった。 聡と仲よくしたい、と強烈に願った。 しかし、家にいると聡は浩輔をうるさがり、話しかけてもろくに返事してくれないのだった。
 
  その微妙な関係は、今でも続いていた。 聡が自分を好きではないらしい、という侘しい自覚は、だいぶ以前からあった。 だから聡といるとつい皮肉屋になってしまう。
 
(それでもこっちは聡が好きなんだけどな)

  浩輔のほうは、聡と半分血がつながっているのが密かな自慢だった。 外科医を選んだのも、兄と同じ職業に就きたいという少年らしいあこがれからだったのだ。
 


*〜*〜*



  遠山一信は、北海道の特に奥まった地域の出身らしく、千歳の飛行場から電車,バスと乗り継いで、2時間以上かかった。 70過ぎの父でなくて29歳の自分が来てよかった、と思いながら、浩輔は草原の外れにぽつんと立つバス停に降り立った。
  そばに2軒、ガソリンスタンドとスーパーマーケットが肩を寄せ合うようにして建っていた。 浩輔は小さなスーパーでスポーツ紙とあたたかいウーロン茶を買い、遠山家のありかを尋ねた。
「ああ、一ちゃんの家ね。 いい人だったよ。 今は誰も住んでない」
「誰も?」
  浩輔は当惑した。
「それじゃ、お葬式は?」
「親戚が寄って、さっき済ませたよ」
  間に合わなかった――浩輔はがっかりした。
「その人たち、もう帰ってしまいましたか?」
「いや、後片付けして今日の午後帰るって」
  もう午後だ。 浩輔はあわてて、詳しい住所を訊いた。
「この道をまっすぐ行って、最初の角を左、突き当たりの家」
「どうも」
 

  屋根の赤いその家は、 畑の横にひっそりと佇んでいた。 縦格子の玄関の横に呼び鈴があったが、2度鳴らしても返答がない。 もういないのかもしれない。 浩輔は溜め息を漏らした。
  それでも念のため、庭の方に回ってみることにした。 北海道の冬はまったく厳しい。 雪は意外に積もっていなかったが、寒さは骨を噛むようだった。 薄く雪に覆われた庭は、東京とちがって広いだけに、なおさら寂しい気配をただよわせていた。
  庭にも人の影はなかった。 長く歩いて疲れた浩輔は、庭の端に置いてあった小さな青いベンチの雪を払って、腰をおろそうとした。
  とたんに背後から声がした。
「だめ。 それ子供用だし、こわれかけてるから」



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