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  車内に並んで座ると、浩輔は向き直って鮎美の顔を覗きこんだ。
「警察でいじめられた?」
  鮎美は驚いて、閉じていた眼を大きく開いた。
「え?」
「いつも元気なアユミちゃんが、ひどく落ち込んでるから」
  しばらく浩輔の目を見返していた鮎美が、不意に座席の背もたれに頭をそらした。 頬に涙が伝ったので、浩輔は慌てた。
  それから鮎美は、これまで決してしなかったことをした。 そっと体を横に倒して、浩輔の肩に頭を載せたのだ。 浩輔の心臓がぴくっと高鳴った。
  そのまま5分ほど、2人はじっとしていた。 勇気を出して、浩輔が肩を抱き寄せたが、鮎美は動かなかった。 抱き合う形で、もう5分が過ぎた。 鼓動の激しくなった浩輔は、遂に我慢できなくなって鮎美の頬に唇を押し当てた。 それから唇を重ね、激しく抱きしめた。
  鮎美は応えた、と浩輔は思った。 少なくとも抵抗はしなかった。 だが、少し経つともぞもぞし始め、するっと浩輔の腕から抜けた。 そして、助手席のドアから車を降り、小走りで去っていった。



  午後はマスコミ対策と善後策検討会議でつぶれた。 病院内はざわざわと落ち着かず、あちこちで職員が固まって、ひそひそと噂話をする姿が見られた。 浩輔は聡を見舞って事態を説明し、父親を補佐して医師たちの動揺を鎮め、戸締まりを点検して野次馬および一部の報道関係者の侵入を防いだ。 駆け回っているうちに、いつの間にか時計は0時を回った。



  過労と大事件の衝撃で、常軌を逸していたのかもしれない。 短針と長針の重なった時計を見ているうちに、浩輔は何ともいえない気持ちになった。 じりじりと胃の腑が焼けるような苛立ちから心をそらそうとして、ビールを1缶あおったが、逆効果になった。 アルコールの刺激がわっと頭に上り、気がつくと靴を引っかけて、真っ暗な戸外に走り出していた。
  彼が向かったのは看護師寮だった。 鮎美の部屋番号は以前から知っていた。 庭の方から窺うと、2階の端にある21号室には明かりが灯っていた。
  部屋にいる!――浩輔は素早くかがんで芝生の端から土の塊を拾い上げ、窓目掛けて投げた。 ドスッという鈍い音が響き、土がばらばらと落ちてきた。
  やがて窓に人影が映り、ガラスが開いた。 浩輔は大げさに両腕を交差させて振った。
  鮎美は胸に腕を組み、あきれた顔で見下ろしていたが、浩輔が手まねで、よじ上っていいかと尋ねると、とたんに慌てて手を横に振り、自分が下に降りるとジェスチャーで返してきた。



 降りてきた鮎美を裏口で待ち構えていた浩輔は、すぐに抱き寄せようとして、ぴしゃっと手を叩き落とされた。 低く鋭い声が言った。
「何してるの。 女追いかけてる場合じゃないでしょう」
「追ってるんじゃない。 捕まえときたいんだ」
  間髪を入れず、浩輔が答えた。 鮎美はすっと身を引いて、ドアに背をつけた。
「一回キスしたから自分のものだなんて、今時小学生でも考えないよ」
「なあ、さっきなぜ泣いてたんだ?」
  不意に話を変えられて、鮎美の顔が硬くなった。
「関係ない」
「ある。 目の前で泣かれたんだ。 気になる」
「放っといてくれる?」
  珍しく声が高くなった。 鮎美の眼が吊り気味になっているのを、浩輔は初めて見た。
「あなたには関係ない。 今までも、これからも!」
  そう言い捨てて建物に戻ろうとした鮎美を、浩輔は突然抱き取って、軽々と運んでいった。
  はじめ鮎美はあっけに取られて抵抗しなかった。 だが10歩も行かないうちに暴れ出した。
「ちょっと、やめ! やめないと髪の毛引っ張るよ!」
  浩輔は不意に芝生の中ごろで立ち止まり、鮎美を下ろすと、両腕をしっかり掴んで動けないようにして、つぶやいた。
「なんて関係ないなんて言うんだよ」
「そうだもの」
「どうしてわかるんだよ」
「わけわかんないこと言ってないで、手離して!」
「俺の気持ち知ってて、それでどうして関係ないなんて言えるんだよ!」


 ひとつ大きく息をつくと、鮎美は真正面から浩輔を見た。
「人の気持ちなんか知らない。 特に、二股かける人なんかわからない」
「相手が軽いからだろ! 本命が出てくるまでデザート食っちゃいけないってのか!」
「勝手にすれば。 ただ私は、デザートでおなか一杯になるぐらい手出す人は好かないって言ってるの」
「じゃなんで俺と付き合った!」
「付き合った? あれは一種のおどしでしょ? 俺が採用してやった、だから首にされたくなければ食事ぐらい付き合えって」
  浩輔の頭から血が引いた。 本当にザッという音が聞こえた気がした。 鮎美は両腕を振りほどき、強い口調で言い残した。
「要領だけいい男なんて、興味ない! 格好悪くたって、こつこつ仕事積み上げていく人がいい!」



  完敗だった。 鮎美がさっさと裏口から入っていき、戸を閉めるのを、浩輔は無言で見送るしかなかった。 毎日おそらく14時間ぐらい働いている鮎美。 それに引き換え、自分は……



*〜*〜*



  翌日の目覚めは最悪だった。 それでも怪我人の兄と過労気味の父に代わって、この危機に立ち向かう責任がある。 浩輔はよろけながら身支度をし、病院に出むいた。
  しかし事態は好転するどころか、底なし沼の情況を呈してきた。 午前11時24分、不意に刑事4人が黒い車で現れて、外科部長の町村を逮捕していったのだ。 その容疑は、医療過誤と犯人隠匿。

 
  夕方、何の情報も入らないまま、じりじりしながらテレビを見ていた浩輔は、腰を抜かしそうになった。 斎藤孝夫の自供により、多摩丘陵の奥で、死体が発見されたというのだ。 それは、手術の失敗を苦にして蒸発したと言われていた、遠山一信医師の遺体だった。
 
 

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