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表紙

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  金曜日、江見悠太少年が退院していった。 生死をさまよう大手術から約一ヶ月、奇跡的な回復を遂げて、これからは月に一度の定期検診に通えばいいことになったのだ。
  病室に聡が挨拶をしに行くと、鮎美が先に来ていて、ストックの花束を母親に渡していた。 母親は涙をぬぐいながら鮎美の手を取り、心から感謝していた。
「ありがとう。 ほんとうに中津川さんのおかげで悠太は、手術前も後もとっても落ち着いて、パニックを起こすこともなくて、助かりました」
「直って本当によかったですね」
  鮎美は優しく答えた。
「風邪だけには気をつけてください。 高熱が体にさわりますから」
「はい。 あ、先生」
  母親は聡が入ると、すがりつきそうになって顔をくしゃくしゃに変えた。
「なんてお礼言ったらいいか…」
  聡は微笑んで、ぼそっと挨拶を返した。



  玄関まで親子を見送った後、聡は鮎美とともにエレベーターに乗った。
「無事退院してくれるときが一番うれしい」
「そうですね」
「今更と思うだろうけど、人の命を預かるのって、重い。 手術するたびに、本心は逃げ出したい」
  鮎美が穏やかに尋ねた。
「先生は若いのに、大手術をこなしてますよね。 大変ですね」
「まあね…… 前は遠山先生がほとんど執刀して、僕は助手だった」
「ベテラン?」
「年は僕と3つしか違わないが、腕は大違いだった。 今でも彼のほうがずっとうまいと思うよ」
  エレベーターが止まった。 鮎美は降りようとして、敷居の前で立ち止まり、振り返った。
「その先生は手術ミスしたんでしょう? 噂では訴えられたって」
  聡の顔が強ばった。
「心臓弁膜症のオペの中でも、やさしいほうだったんだ。 僕は納得してない。 彼があんなミスするなんて、考えられない」
  ドアが閉まり、鮎美の姿は見えなくなった。



*〜*〜*



 大異変が起こったのは、12月の初めだった。 早い夕闇に閉ざされた本館の3階、事務室の扉が少し開いて、光が漏れているのを、父の部屋に行こうとして浩輔が見つけた。
  その部屋には金庫があるので、開けっ放しということはまずない。 不審に思ってドアを開いた。
 
  5分後、病院長の部屋に駆け込んできた浩輔の顔は土気色だった。
「ノックをしなさいと言ってるだろう」
  父親の英太郎が不機嫌そうに言うのを遮って、浩輔は枯れた声で叫んだ。
「兄貴が……聡が殴られて……頭蓋骨が割れてる!」
  英太郎は少しの間、立ち尽くして震えている相手が宇宙人ででもあるように、瞬きを忘れて見つめ続けた。 それからいきなり、ガッと立ち上がった。
「どこだ!」
「こっち」
  2人はもつれるように廊下を走った。

 緊急手術が必要なのは明らかだった。 町村が尻ごみするので仕方なく、院長は系列に頼み込んで、一流の外科医に緊急呼び出しをかけた。
  現時点でできる限りの処置をほどこして、ようやく長い手術は終わったものの、聡の容態は予断を許さなかった。 麻酔が醒めるはずの時間が来ても昏々と眠りつづけ、病院長を心臓麻痺寸前にまで追いつめたあげく、ようやく6時間後に意識が戻ったが,目がすわったままで一言も口をきこうとしなかった。

  翌日の夕方になって、婚約者の秦雅恵が駆けつけた。 家族で結婚前の最後の水入らず旅行にセイシェルへ出かけていて、その日の午後に戻ってきたのだ。
  聡が殺されかけたと知って、雅恵はひどく取り乱していた。
「ねえ、どういうこと? 強盗?」
「まだ警察が調べているが、たぶんちがう。 金庫はこじ開けられてないし、金目の物は盗まれていないからね」
「じゃ、なぜ? 斜め横から殴ったんでしょう? いったいなんでそんなことを!」
  がたがた震え出した雅恵を、浩輔はそっと抱きしめてやった。 彼の肩に頬を載せて、雅恵は途切れ途切れに呟いた。
「ひどいよ……そう思うでしょう? あんないい人なのに、いったい誰が……」
「そうだよね。 誰が、何のために」
浩輔の声は低く、暗かった。



  薄暗い352号室の扉がそっと開き、ひとりのナースが滑り込んだ。 ベッドの上の青年が小さくうめいた。
「だれ?」
  ナースはふっと明るい表情になって、患者の顔を覗きこんだ。
「中津川です。 記憶ありますか?」
  聡の体から余分な力が抜けた。
「ああ……」
「手術は、覚えてますか?」
「いや、何も」
「なぜ手術することになったも、思い出せませんよね」
  聡の目が据わった。 なんとかして思い出そうと頭を絞って、視線が真ん中に寄ってきたので、鮎美はあわてて制した。
「それでいいんです。当然ですから。 大事故の後は記憶がなくなりやすいんです」
「ここはICU?」
  弱々しく腕を上げようとしながら、聡はつぶやいた。 鮎美は傍に椅子を引いて座り、小声で言った。
「いいえ、3時間前にこっちへ移りました。 心配ですか? 私、ここにいます。 安心してやすんでください」
「でも君は仕事が……」
「4時で勤務が終わって、明日の夜まで非番ですから」
  母を14歳で失っている聡にとって、この思いがけない優しさは胸に染みるものだった。
「ありがとう」
  弱々しい声をふりしぼって、聡は感謝した。 鮎美はちょっと微笑み、ベッドを寝心地よく直した。




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