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表紙

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  鈴木静香というナースと、鮎美はすぐに仲良くなった。 静香はなかなか献身的な性格で、学生時代からボランティアにいそしみ、カンボジアで奉仕活動をしたそうだった。 鼻も顔も丸い庶民的な顔立ちで、スタイルが抜群によく、若い職員からは、ぜひビキニを着せてみたいなどと不謹慎なことを密かに言われていたが、本人は無邪気にも気づいていなかった。
  2人とも恋人はいないので、どちらも非番のときは、よくいっしょに行動した。 その日は郊外のアウトレットに行き、帰りに近くのコーヒーショップでパフェを食べた。
  癖で、ストローを丸く折り曲げながら、静香が話していた。
「……だからね、皮膚科の河野と内科の伊勢には注意。 たちの悪い女好きだからね」
「了解」
  アイスクリームの下に落ち込んだマンゴーの切れ端に気を取られて、鮎美は生返事をした。
「町村も年だけど手は早い」
「あのおじさん、たしか外科だよね。 もう手術はしないの?」
「最近はほとんど若先生、つまり聡さんに任せてるね。 彼は確かにうまい。 落ち着いてるし」
「若先生は表向きは堅そうだけど、実態は?」
「おんなじ。 裏表のない男。 浩輔先生とは対照的」
  興味を覚えて、鮎美は顔をあげた。
「浩輔先生は裏表だらけ?」
「うーん、そうとも言えないけど」
  静香は説明しにくそうだった。
「なに考えてるんだかわからない。 昔からそう。 東南医大を主席で卒業したそうだし、これまで大きな失敗はしたことがないから、優秀なんだろうけど、自分からは何もやろうとしない。 高い車に乗っておしゃれしてればいいんじゃないの?」
「ああ、そういうタイプ」
  親の七光りには結構いそうな連中だ。 でも……彼は考えない人間とは思えない、と鮎美は感じた。 むしろ神経は繊細なのではないか。 あのとき、阿佐ヶ谷で入った家庭的なレストランでは……
  静香は早口でしゃべりつづけていた。 彼女の弱点は、この話好きだ。 その上ひとがいいから、水を向けるといくらでも話す。 具合の悪いことでも、ふっと話してしまう。
「彼も外科医だよね。 手術の失敗とかないの?」
  一瞬,間があいた。
「失敗するほど大手術しないもの。 要領いいんだ。 今は若先生、前は遠山先生が大きな手術はやってた」
「その先生は今、とうしてるの? 名前聞かないけど」
「心臓弁膜の手術でミスって、訴訟起こされた。 どこにいるかわからないから、今は病院が訴えられてる」
「どういうこと?」
  鮎美は眼を見張った。
「どこにいるかわからないって」
「つまり、行方不明になっちゃったんだ。 いわゆる蒸発」
「いつ?」
「ええとね、おととしの終り。 11月の末だった」
「ふうん、無責任だねえ」
  とたんに静香はむきになった。
「そんなことないよ。 外科で一番責任感の強い人だったんだから。 用心深くて、つまんないミスなんか絶対にしないってタイプだった」
「でも逃げ出したんでしょう?」
「おっかしいんだよね。 逃げたって、よその病院に行けるわけじゃなし、あんなしっかりした人がパニックになるっていうのもぴんとこないし」
  そこで静香は声をひそめた。
「外科に安井っていう同級生がいるんだけど、ちょっと様子が変なんだ」
「変?」
「うん」
  さらに声が低く、聞き取りにくいほどになった。
「あの名医が失敗するなんておかしいよねって世間話してたら、急に黙っちゃって、急いで話題変えるの。 なんかさ,気が咎めてるって感じだった」
「ふうん」
  興味なさそうに、鮎美はパフェに首を突っ込み、その話はそこで途切れた。



*〜*〜*



「だからバーには行かない。 カフェバーもプールバーも、アルコールを出すところは嫌。 他の人を連れていって」
「酔いつぶれたところ見たいな」
「オヤジ!」
  小声で言い争いながら、鮎美と浩輔は旧館の裏手を急ぎ足で歩いていた。
「会うなら太陽の下。 テニスなんかがいい」
「あれだけ立ちんぼで働いて、まだ足が動くのか!」
  浩輔は嘆息した。 鮎美が意地悪そうに言った。
「テニスできないんだろう」
「大学のサークルでやってたよ」
「そうかそうか、遊び人。 もてたきゃテニスだ」
「ころっと意見を変えるな」
「そうだ」
  不意に思いついて、鮎美は声をあげた。
「ボーリングにしよう。 やれる?」
「まかせなさい」
  浩輔は威張って言った。



*〜*〜*



 水曜日だった。 浩輔が正面玄関から入っていくと、ちょうどエレベーターが開いて、鮎美が一人で乗り込むところだった。
  すかさず浩輔は長い足を駆使して走り、同じ箱にうまく乗ることができた。 これで2人きり、と思った瞬間、閉まりかけたドアを強引にこじ開けて、ぴちぴちのジーンズをはいた娘が飛び込んできた。
「浩輔!」
  顔をくしゃくしゃにしてむしゃぶりついてくるその娘を見て、浩輔は目を覆いたくなった。
――まいった、奈津じゃないか!――
  それは、以前車の中でキスしていた子だった。
「ひっどーい、いくらtelしても無視して! メール読んでないでしょ!」
「忙しいんだ。 交通事故の救急患者なんかでさ」
  人目もはばからず全身で抱きついてくる奈津を、成り行き上両腕でかかえながら、浩輔は背後にいる鮎美を痛いほど意識していた。 まったく、これじゃ最悪だ。
「わかってる。 浩輔はいつでも二股どころか三股、四股だ。 知ってるけど、みんなにまめだから許してたんだよ。 ねえ、気持ち変わったの? それとも私だけバツ?」
「ちがうよ。 また連絡するから、今日は……」
  チンと音がしてエレベーターが止まり、澄ました顔をして鮎美が降りていった。 浩輔は閉じるドアを蹴飛ばしたくなった。




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