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表紙

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  夕方、聡のPHSが鳴った。 婚約者の雅恵(まさえ)からの誘いだった。
「先週ね、香と行った店がおいしかったんだ! アルゼンチン風焼肉の店。 肉好きでしょう?」
「まあね」
  だが、今は胃が痛んでいて無理だった。 難しい手術の前にはいつもそうなる。 知り合って日が浅いからわからないのは無理ないが、もうちょっと雅恵には気を遣ってほしかった。
  それでも敏感に口調の苦さを感じ取ったのだろう。 急いで雅恵は店を変えた。
「さっぱりしてるほうがいい? 銀座のおそば屋さんにする?」
  今度はそんなに気を遣われると疲れる、と感じた。 自分でも身勝手だと思いながら、聡は努めてやさしい口調で答えた。
「できればそばの方が食べたいな。 君がいいならだけど」
  話がまとまって電話を切った後、聡は考えた。 婚約者といっても、まだ気心が知れていない。 こうやって探りあいながら付き合うのは疲れるなあ、と。

 
 
 手術の日は小雨だった。 雨の日はメスの切れが悪い気がして、聡はあまり好きではなかった。 しかし予定は予定だ。 準備に念を入れて10分遅れで手術は始まり、40分伸びて終わった。 薄氷を踏む思いだったが、なんとか成功させることができたので、聡はほっとした。
  しかし、今度は周囲の賞賛を浴び、よかったですねと祝福されても、1ヶ月前の手術のときの高揚感は味わえなかった。 それより今度の患者、江見悠太少年の予後が気になる。 それは少年をただの患者と見られなくなった証拠だった。 聡は辛かった。
  あの女のせいだ――胸の深い奥で声が聞こえた。
『生きていさえいれば、できることはいっぱいある』
  力のこもった、まるで祈りのようなその言葉。 あの言い方には不思議な迫力と哀感があった。



  ナース中津川は、相変わらず人の1.5倍ぐらい働いていた。 目配りも気配りもよく、先輩ににらまれるほど出しゃばりもせず、まったく男性職員に媚びを売らない。 あっぱれな働きぶりだった。
「アユリンの変わったとこはさ」
と、吉村が口を切ったので、聡は白衣を脱ぐ手を止めた。
「なんだよ、アユリンって」
  吉村は笑い出した。 横を通り過ぎていった浩輔が、あっさり言い残した。
「中津川鮎美。 小児科のナース・アイドルだよ」
  思わず聡は問い返してしまった。
「本人はそんな呼ばれ方してるの知ってるのか?」
「さあな。 ある意味近寄り難いからな。 朝から晩まで仕事,仕事。 あんなに働いたらせっかくの若さも美貌もすりきれそうだよ」
「少し見習え」
  遅刻常習の吉村は、苦笑するしかなかった。
「あれじゃさ、看護婦、じゃなくて看護師の職業に身を捧げちゃってる感じだよ。 いまどき古典的すぎないか?」
「知らないよ。 俺関係ないから」
  言ってから聡はぎょっとなった。 誰も自分に結び付けて話してなんかいないのに、なんでわざわざ関係ないなんて……
「私生活が全然見えてこないんだって。 寮にいることはいるんだけど、部屋には個人的なものは一切なくて、写真も見当たらないって」
「だからなんでそんなことを俺に話す? 中津川鮎美なんて……」
「見たことも聞いたこともない?」
  再び通りかかった浩輔が語尾を横取りした。
「並んで楽しそうに話してたのに?」
  吉村がぱっと顔を上げたのを見て、聡は浩輔を張り飛ばしたくなった。
「何が親しそうに、だ。 おととい手術した214号室の子を担当してて、たまたま一緒に部屋から出ただけだ」
「アユリンは男と並んで歩かないんだよ。 にこっと笑って速度をずらすんだ。 たぶんわざとやってるんだろうと思うけど。 よかったね、一緒に歩けて」
  かっと来て、聡は獰猛に振り向いた。
「おい! ひとを幼稚園生みたいに!」
  浩輔はぱっと両手を上げて予防線を張った。
「わるい! ちょっと冗談言っただけだよ」
  息を1つ吸い込んで、聡はもう浩輔を相手にせずに、吉村に向き直った。
「みんながそんなに落ち着かなくなるなら、そのアユリンにはよその病院に行ってもらったほうがいいな」
  吉村は青くなった。
「やめろよ! 彼女は外来にも人気あるんだ。 患者が減るぞ。 それに、真面目に働いてるものを辞めさせられるか?」
「何カリカリしてるんだい。 あんたらしくもない」
  浩輔が面白そうに後押しした。 また底意を感じて、聡は唇を引き締めた。
――だめだ、その手に乗っちゃ――
「疲れてるんだよ。 俺もまじめだからな。 早くうちへ帰って寝たいんだ」
  大股にロッカーを出ていく義兄の後ろ姿を、浩輔はじっと見送った。 その顔にはもう笑いは跡形もなかった。



*〜*〜*



  病院敷地内の看護師寮に行こうとして、夜道を歩いていた鮎美は、目の前の立ち木が動いたので、びっくりして立ち止まった。
  よく見ると、動いたのは木ではなく、寄りかかっていた男の姿だった。 彼は顔を上げて、少々浮わついた声で言った。
「アユミさん、お帰りですか」
  酔ってる――鮎美はコートの前をかき合わせ、相手にせずに歩き出した。 すると酔っ払いはひょろひょろついてきた。
「仕事ばっかりしてるとカビが生えるよ。 まだ9時だ。 遊びに行こう」
「遊びから帰ってきたところでしょう? おかまいなく」
「堅い。 堅すぎる」
  男は鮎美に追いつき、酒臭い息を吹きかけた。 鮎美は思わず目をつぶった。
「ジンだ」
「そう、ジントニック。 鼻がいいね」
「もっと若い子が好みでしょう?」
「君は充分若いよ。 たしか22」
  履歴書をコイツも読んだんだ――ますますうんざりして、鮎美は足を速めた。
「冷たくしないでよ。 僕が君を推薦したんだよ。 だからここに就職できたんじゃないか」
  鮎美の足が止まった。 そう…… たぶん、いや、確実にそうだ。 面接の日に感じた違和感が、ようやく明確な形を取った。
  夜目にぼんやり浮かぶシャープな輪郭の顔を見ながら、鮎美はすばやく頭をめぐらした。
「それなら、夕食ぐらいなら付き合う」
  相手がさっと顔を上げたので、鮎美はいそいで付け足した。
「ただし、この病院の人が絶対行かないところにしてよ。 うるさいこと言われたくないから」
「ラジャー」
  浩輔は楽しそうに右手を上げて敬礼した。


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