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  翌朝7時、私服に着替えて通用口から出てきた鮎美は、右手の広い駐車場に見覚えある濃青の外車が入ってきたのを見て、眉をひそめた。
  表通りに出るにはどうしても、駐車場を横切らなければならない。 仕方なく、鮎美はコートの襟を立てるようにして、素早く歩き出した。
  車からは誰も降りてこなかった。 しかし、傍を通り過ぎるとき、中に二人並んで座っているのを目の隅に捕らえた。 助手席のほっそりした姿は、初冬なのに白い肩がむきだしになっている。 流行を追いすぎた若い女らしかった。
  鮎美が車の脇を歩み去った直後、ドアが開く音がして、2人の降りた気配があった。 やがて嬌声が聞こえ、チュッというキスの音が耳に入ってきた。 鮎美は振り向かずに軽く眉を上げた。
「ああいうのが好みか」
 小声でつぶやきながら、ややほっとした気持ちで、鮎美は家路を急いだ。



*〜*〜*
 

  回診が長引いて少し遅れたので、小走りで聡が入っていくと、会議室は厳しい雰囲気になっていた。 外科部長の町村陽が顔を上げ、息を切らせている聡に呼びかけた。
「これはやはり、手術しかないだろう」
  頭の後ろに冷たいものが走った。 聡は椅子に腰かけながら、つぶやくように答えた。
「難しいです。 患者はまだ13歳で体力がないし、たとえ手術は成功しても持つかどうか… それに、あの位置では摘出は非常に困難だと…」
「たしかに」
  副部長の松田が途中で割り込んできた。
「無理をして死なせてしまっては元も子もない。 投薬治療で延命させるのが一番では?」
  町村は顔をしかめた。 松田の事なかれ主義は病院でも有名だった。
「あの腫瘍はやがて脳を圧迫して頭痛に悩まされるようになる。 意識は混濁するし、運動能力も制限されるだろう。 じわじわと廃人になるのを放っておくのかね」
「でも万一,手術に失敗すると病院が訴えられることにも」
  事実、半年前に若手のホープと言われていた遠山医師が心臓の切開手術でミスを犯し、患者の妻が訴訟を起こしてまだ係争中だった。 一度に2件の訴訟は、いくら大病院でもイメージダウンにつながる。
  机に手を置いて力を込め、町村部長は決断した。
「聡先生なら成功する。 手術に踏み切ろう」


  胸の奥におりが溜まっているような気分で、 聡は会議室を後にした。 一ヶ月前、難手術に成功して得た達成感は、もうどこにも残っていない。 勇気を奮った反動だろうか、この数週間、聡は落ち着かず、自信も迫力も失っていた。
  疲れたな、と毎晩思う。 30になると、人間少しずつ衰えが出るのかもしれない、とまで思ってしまう。 29と大差ないはずなのに。
  いっそ患者の両親が手術に反対してくれたら、と思いつつ、214号室に入ると、付き添いの母親が、すがるように顔を上げて挨拶した。
「あ、先生」
  その必死な顔を見て、聡はますます気が重くなった。
「いかがですか? 様子は」
「変わりません。 ときどき頭痛がするみたいで顔をしかめますが、私には何も言いません」
  聡は溜め息をつきそうになって、あわてて自重した。
「今はよく寝ていますね」
「はい、さっき看護師さんにお薬をいただいて」
「じゃ、ちょうどいいですから、お話させてください。 ちょっと外で」
  母親の顔が緊張した。

 
 思いがけず、母親は飛びつくようにして手術に賛成した。 日に日に弱っていく息子を見るのがたまらないのだ。 全力を尽くしますが百パーセントの成功がお約束できるかどうかは、まで言っても、母親の決意は揺るがなかった。
 
  手術の日程は、翌々日の午後2時からと決まった。 あらためて本人に告げるため、重い足取りで病室に向かった聡は、中から楽しそうな会話の声が聞こえるので,ドアの前で一瞬立ち止まった。
「……それで逃げたの?」
「もうちょっとでね。 でも羊のほうが速くて、兄ちゃんは牧場の端で捕まってお尻をかじられた」
  笑い声が爆発した。
「ど……どうしてお尻?」
  笑いで途切れさせながら少年が尋ねた。 明るい女の声が答えた。
「半ズボンが緑だった」
  2人はそろって、ぷっと吹き出した。 
  聡はちょっと考えたが、結局ドアを押して入っていった。 ベッドの上の病人と、横に立っていたナースが、共に顔を上げて聡を見た。
  ナースの顔を見て、聡は意外な気がした。 今話題の中津川鮎美なのだ。 都会的な美少女の彼女に、羊だの牧場だのの話は似つかわしくなかった。
  聡の真面目な表情を見て、少年の顔に静かなあきらめと緊張の色が広がった。
「手術ですか?」
  子供とは思えない落ち着いた声だった。 聡は無言でうなずいた。 少年の眼に涙がたまりかけるのを見て、中津川が屈みこんで話しかけた。
「泣いていいよ。 誰だって怖い」
  少年は眼を伏せて、小さく微笑した。 そして尋ねた。
「鮎美さんが足の手術をしたときはどうだった?」
「ああ、手術のことより、終わった後のことを考えた。 あれしよう、これもしようって」
  少年の顔が少し明るさを取り戻した。
「そうだよね。 僕もサッカーしたいし」
  鮎美も笑ってうなずいた。


  病室から出てきた聡は、自然に鮎美と並んで歩くことになった。 数秒間無言が続いて、不意に鮎美が小声で尋ねた。
「手術は成功しますか?」
  聡はまばたきした。
「半々かな」
「成功してもサッカーはできませんよね」
  聡はうなずかざるを得なかった。
「あの子は特殊でね。 頭蓋骨が人より薄い。 ヘディングは無理だな」
  鮎美は考えた。
「それでもできることはいっぱいある。 生きていれば」
  力の入った言葉に、思わず聡は鮎美の顔を見返してしまった。
「生きていれば?」
「そう、生きてさえいれば。 死んだら何もできなくなる。 当たり前だけど」
「真剣だね、若いのに」
  からかったつもりはなかったが、顔を上げた鮎美の眼は鋭かった。 思わず聡は視線をそらしてしまった。
  しかし、非難や批判の言葉は返ってこなかった。 ただ、
「失礼します」
  という穏やかな声だけを残して、鮎美は廊下を曲がっていった。




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