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表紙

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  聡がそのナースに気付いたのは、騒がれ出してから1週間以上過ぎた後だった。 婚約者がいる上に真面目で通っているために、誰もゴシップを教えてくれなかったのだ。
  それでも噂はいつか耳に入る。 2階の小児科に、えらく愛らしい新人が入ったという話を、泌尿器科の同期がうらやましそうに語った。
「眼がこんなに大きくて、口元がかっこよくて、かわいいーって感じなんだ。 陽気で子供にも大人気なんだって。 泌尿器科には絶対来ない人材だよな」
「顔かわいいと性格悪いって」
  そっけなく答えて、聡は先にエレベーターを降りた。 吉村も続いて降りてきて、いつも通り身振り大きく話を続けた。
「それがそんなことないんだな。 最後まで残って後片付けもちゃんとするし。 若いのに薬名を良く覚えてるし、使えるって」
「ふうん、外科にスカウトするか」
  冗談に答えた聡は、急に吉村に袖を引かれて眉をしかめた。
「なんだよ」
「あれ、あれ!」
  声を低めて吉村が指摘した先を、聡は何気なく眺めた。 この病院では、内科はクリーム色、外科はミントグリーン、小児科はピンクと、ナースの制服が決められている。 廊下を歩いてくる2人はどちらも、ピンクの制服を着ていた。
  右にいる一人が軽く微笑して吉村に会釈した。 吉村もにこにこと返した。 ついで彼女は聡と視線を合わせた。 聡はなんとなくはっとした。
  黒目がち、という言葉があるが、彼女の眼はまさにそんな印象で、青いほど真っ白な白目の中に、つやつやと輝く黒目がひろがり、じっと見ていると吸い込まれそうだった。
  今度は笑わなかったが、彼女は聡にも頭を下げた。 聡も同じ動作で応え、2人のナースは軽やかな足取りで去って行った。
 
  後ろ姿を見送りながら、吉村は感に堪えたようにつぶやいた。
「ほんとにかわいい」
  聡は顔をそむけた。そして、胸にできたしこりを飲み下すように、そっけなく言った。
「制服が似合うだけじゃないのか。 ちょっとかわいい程度だよ」
「そう言うなよ。 そりゃおまえには単なるナースの一人かもしれないけど、中津川さんは図抜けてるよ」
「中津川っていうのか?」
「そう。 中津川鮎美。 名前もかわいいっ!」
  ひとりで盛り上がっている吉村を残して、聡はさっさと自室に入った。 
  これまで彼はナースを恋愛の対象と考えたことはなかった。 もちろん遊び相手とも思わない。 厳格な母の影響で、尊重すべき同僚として扱ってきた。 だからナースたちの評価は高い。 いまさらその得点を暴落させる気はないが、でも…… たしかにかわいかった、と聡は自分の心の中だけで認め、苦笑した。



*〜*〜*



 トントン、とノックされて、浩輔は椅子にだらしなく伸びて座り、長い足を机に載せたままの体勢で応じた。
「はい?」
  カチッという音と共にドアが開き、ナースが入ってきた。 外科の制服とは色が違う、と目の隅にに捕らえた映像をぼんやり思い返していると、やわらかい声がした。
「見つけましたよ」
  思いがけない言葉に、浩輔は身を起こして体をねじ曲げ、相手を見ようとした。
  そこにはピンクの制服を着た小柄なナースが立っていた。 そして、目が合うと、にこりというより、口を横に開いてにやっと笑った。
「1280円お返しします」
  机の上に封筒が置かれた。 浩輔が無言でその封筒を見ていると、ナースは付け加えた。
「中身を確かめて」
「いやみな女だな、いいって言ってるのに」
  そっけなく言って、浩輔はまた椅子に伸びた。 封筒には手も触れない。 ナースは平気で机に手を伸ばし、封筒の中身をそっくり取り出した。
「千と、百と百と、それに1枚、2枚、3枚」
「アメリカのデパートの店員か! いちいち数えるな」
  ぶつぶつ言いながら、浩輔は金を無雑作につかみ、娘に押しつけた。
「いいって言ったらいいの。 こんなもん持ってくるなって。 とっくに忘れてたんだから」
「覚えてるからすぐわかったんでしょう?」
  わざと彼の手の届かないところに封筒を置いて、彼女は深々と一礼した。
「あのときはありがとうございました。 じゃ」
  さっさと出ていく娘の後ろ姿を、浩輔は顔をしかめて見送った。



*〜*〜*



  それから10日もたたないうちに、『アユリン・クラブ』が結成されたことを知って、聡は驚いた。 地下でメルマガまで出そうという勢いで、メンバーは若い研修医からベテランの医者まで集っているそうだった。
  中津川鮎美自身は、そんな周りの雑音には目もくれなかった。 例えば……
  水曜日の午後、ブザーが鳴った。
「218号室の横上さん。 ええと、担当の久米さんは……今いないか。 誰か行って」
「はい」
  身軽に立ち上がったのは、鮎美だった。 カルテを受け取り、目を通してチェックすると、素早く出て行く。 なめらかな動作だった。
  残った二人は書類を整理しながらぽつぽつと話した。
「あの子さ」
「ん?」
「意外といいよね」
「うん」
「最初見たときはコビコビ系かと思ったけどね。 真面目すぎるぐらい真面目だね」
「そうだよね」
「男嫌いかな」
「どうかな」
  というわけで、鮎美は女性陣にもけっこう人気があった。
  かいがいしく働くだけでなく、さりげない思いやりがあるところが受けていた。 気弱な高倉が、託児所で子供が熱を出したと連絡を受けて困っていると、他のナースがいなくなったところで、そっと声をかけた。
「今夜は用事がないんで,代わりましょうか」
  びっくりしたり喜んだりで、高倉の白い顔が赤らんだ。
「ほんとに? いいの……?」
「ええ、私も風邪引きやすいんで、そのうち休むかもしれないし、そのときのための貯金と思えば」
「ありがとう!」
  いそいそと帰っていく高倉の後ろ姿をちらっと見て、鮎美の顔は引きしまり、一瞬怖いほどになった。


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