表紙

ダーネベルイの小さな店 2


 翌朝早く、ヨハネスは父に命じられて、牧師のベルイマンの家に靴を届けに行った。
 そこの家政婦をしているグレーテは穏やかな中年のおばさんで、お駄賃だと言って、ステッキの形をしたねじり飴をニ本くれた。 喜んだヨハネスは、一本を大事に紙にくるんでポケットへ入れ、残りの一本を半分に折って、なめながら家へ帰った。
 叔母のカーリンは明日にならなければ来ない。 今日まで、食事当番はヨハネスの役目だ。 昨日は宿題をやっていたせいで、水を汲んでおくのを忘れた。 学校へ行く前に水汲みをして湯を沸かし、パンを切ってチーズを出して、ついでに父と自分の弁当もこしらえて…… 頭が痛くなってきた。 飴をがしっと噛みくだくと、ヨハネスはしかめっ面で角を曲がった。

 そこで足が魔法にかかったように止まった。 店の前にあのチビがいる。 近所の子供達に取り囲まれていた。
「インゲ? だめだよ。 この通りにはもうインゲがいるもん。 ほら、この子。 インゲボルク・ビョールセンさ」
「名前変えな。 気取り屋のゲルトルードとか」
「それ、いい! ゲルトにしようぜ!」
 少女は黙っていた。 多勢に無勢だが、めげた様子はない。 胸に腕を組んで、顎を上げて回りをねめつけていた。
 そのしっかりした姿が、ヨハネスの心に懐かしい思い出を呼び起こした。 無口で人付き合いの悪い父に代わって、店で靴を売りさばいていた母のマリーは、借金取りが来ると、いつもの楚々とした愛想よさをかなぐり捨て、こんな風に腕組みして、負けずに言い返していた。 終いには借金取りのほうが根負けして引き返すほど、母の啖呵〔たんか〕は威勢がよかった。
 母ちゃんがいたころはよかったなあ。 店に毎日客が来て、にぎやかに冗談なんか言って……
 ひょっとしたら、この生意気なチビをうまく育てれば、母の代わりになるかもしれない。 ヨハネスは不意に武者震いを感じた。 ほんの小さな店構えだが、ヨハネスは自分の家が好きだった。 革の匂いも、木型がずらっと並んでいる有様も、カンカンという木槌の音も愛していた。
 そして、頑固で融通のきかない父さえも。

 とっさに決意を固めて、ヨハネスは角から飛び出した。 年のわりには背が高く、落ち着いているヨハネスは、子供たちの間で一目置かれていた。 それで、彼が帰ってきたことを知ると、蛙の群に小石を投げ込んだときのようにばらばらに飛び散って、逃げていった。

 立ったままのインゲと残されると、ヨハネスには気まずさが戻ってきた。 昨日の今日でそう簡単になれなれしくできない。 横を通り過ぎるとき、ぶっきらぼうにこう言うのが精一杯だった。
「ゲルトなんて呼ばれても返事するな。 イングリッドだって言い返せ」
 目を細めて、道の彼方を見渡しながら、インゲは妙に腹のすわった声で答えた。
「いいえ、インゲは私のほうよ。 あっちをインゲボルクと呼ばせてみせる」
 自信満々だな、こいつ――ヨハネスはあきれたが、もう昨夜のような嫌な気分にはならなかった。 強い女は手がかからない。 少なくとも、いつもめそめそしている金物屋のレーネよりはマシだ。 いじめてもいないのに、すぐ火のついたように泣くから、たまたまそばにいた男の子が折檻〔せっかん〕を受ける羽目になるのだ。

 ヨハネスは作戦を変えた。 インゲを無視するより、使うことにしたのだ。 裏の共同井戸から水を汲むのは力とコツがいるから自分でやったが、パン切りとチーズ挟みはインゲに命じた。
 少なくとも、ヨハネスは命令したつもりだった。 しかし、インゲは大きなパンを抱えこんで楽しげに切り分け、丸く硬いチーズを、言われなくても手際よく薄くそいで、花びらのようなサンドイッチを作りあげた。
 こいつ、やるじゃないか――もしかするとカーリンおばさんは素晴らしい手伝いを手に入れたかもしれない、と、ヨハネスは本気で考え始めた。 それで、朝食の後、教科書を紐でくくって背負った後、ポケットから紙包みを出して、いきなりインゲの鼻先に突き出した。
 受け取る前に紙をちょっとめくってみて、インゲの顔に初めて笑みが浮かんだ。
「くれるの?」
「今日だけな」
 これしかないから、という言葉を飲み込んで、ヨハネスは肩をそびやかして家を出た。
 
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