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僕の選んだ人 3


 
 

  翌日、青いコートにふんわりと毛先をはねあげた、きゃしゃな若い娘が、正面入口から入ってきたとき、誰もそれが高城紗絵だとは見分けられなかった。 人の顔を見覚えるのがうまい受け付けの佐々木ミユキでさえまったくわからずに、スタスタ入っていく紗絵を呼び止めてしまった。
「あの、どなたかとお約束でしょうか?」
「いいえ」
  紗絵は微笑した。 日ごろ笑顔など見せたことのないジミ高だから、これでますますわからなくなった。 口元がかわいいな、と思いながら、ミユキはていねいに続けた。
「それでは、ご用件をこちらで」
  素直に受け付けデスクに近づくと、紗絵は社員証を差し出した。 それを覗きこんだミユキは、二宮尊徳の姿勢で固まってしまった。
 
  人事課に入っても、騒ぎは続いた。 変身した紗絵が、可憐な中にも堂々としているので、誰も表向きからかうことができず、ただ口を開けて見とれるか、せいぜい、驚いた! と小声で嘆息するぐらいだったが。
  波紋は広がっていった。 紗絵が普段通り廊下を歩くと、それまで見向きもしなかった男子社員が挨拶をしていく。 中にはほほえみかけてくる者までいて、変わり身の早さに、紗絵は心の中で溜め息をついた。
  部長室を出てきたとき、ちょうどエレベーターが開いて、中から真樹ともうひとり女子社員が降りてきた。 女子社員のほうは既に噂を聞いていたらしく、
「30近くなると若作り始めるのよね」
  というコメント(捨て台詞?)を残して、カッカッとヒールの音をさせながらリノリウムの廊下を歩いていった。
  真樹のほうは、全然驚かなかった。 目を丸くさえしない。 普通に微笑して、
「おはよう」
  と言った。 肩透かしされた気分になりながら、紗絵も低く声を返した。
「おはようございます」
  それだけだった。 ふたりは自然にすれ違い、遠ざかっていった。

  昼休み、バッグ(珍しくブランドもの)を肩にかけた紗絵が、正面玄関のロビーで人待ち顔に立っているのを、何人もの社員が見かけた。
  5分が過ぎ、やがて我慢できなくなったように、営業の横山素子――エレベーターのそばで挑発的な言葉をはいた、あの女子社員――が近寄ってきた。
「見せつけようっていうの?」
  振り向いた紗絵は眼をパチパチさせた。
「何を?」
  横山の口が突き出た。
「きまってるじゃない! 榎田さんと待ち合わせでしょ!」
  紗絵は爽やかに笑った。
「いいえー。 あなた方のエノッキーを取ったりしませんよ、ワタシ」
  ちょうどそのとき、久慈明之が入ってきた。
 
  役者だから、アキにいにはそれなりに華があった。 いつもはあちこちに穴のあいた擦り切れジーンズなのを、今日は無理してスーツを着ている。 長身だからよく似合う。 誰から借りたんだろうと思いながら、紗絵は手を上げて合図した。
「よう、紗絵!」
  なんと上げた手にハイタッチされた。 やりすぎだよ、と思いながら、紗絵は笑顔を作った。
「いこ。 どこでごちそうしてくれる?」
「ごちそうってのはどうも。 俺としては回復した牛丼屋に行きたい」
「復活した、でしょう? 牛丼はいやだよ。 野菜が少ない」
「だからいいんじゃないか。 肉、肉、大好き、肉!」
  芝居が大げさになってきたので、紗絵は小声でたしなめた。
「ハムレットやってるんじゃないんだから」
「そうだ、俺さ、『喪服の似合うエレクトラ』の準主役もらった」
「え?」
  思わず紗絵は立ち止まってしまった。 アキにいが最初からハイテンションだった理由がようやくわかった。
「おめでとう!」
  かるく見えても、久慈明之がどれほど芝居が好きで、やりがいのある役を求めているか、そのために人知れずどんなに努力しているか知っていた紗絵には、この知らせは本当にうれしかった。
  動作が無意識に出た。 学生時代に戻って、紗絵はアキにいの首にわっと抱きついてしまった。
「よかったよかった!」
  もう歩道を歩いていた二人だが、会社からそう遠くなかった。 飛びついてアキにいの頭をなでていた紗絵の眼に、じっと立っている真樹が映った。
  真樹は会社の前にいた。 黙って二人を見送っていた。 信じられないことに、その眼には涙がいっぱい溜まって、真っ赤に充血していた。


 結局、スポンサーの強みで、紗絵はわめき立てるアキにいを無理やりサラダバーに引っ張っていった。 その店ではおいしいサイコロステーキを出すことを内緒で。
  入るときには鬼の顔だったのに、ステーキをごちそうになって出てきたアキにいは、笑いが止まらない様子だった。
「なんかオレ、もうけたな。 綺麗に戻ったサエっぽとデートできて、お祝いまでされちゃって」
「めでたいじゃない。 いつもせりふ4つぐらいなのに、今度は」
「16ページ分」
  溜め息を吐いてみせたが、にやにや顔は変わらない。 うれしくてしかたないのが、素直に出ていた。
「覚えるの大変だよ」
「そういうこと言ってみたかったんだよね」
「うん!」
  まだ爽やかな笑いを顔に貼り付けたまま、アキにいは続けた。
「いっそこのまま、付きあっちゃわない?」
「だからそれは…」
「俺さ、定収入ないだろ? ひくい方の低収入はそうなんだけど、ってシャレ言ってる場合じゃなくて、だから言い出せなかったんだ。 前からさ、サエっぽはちょっといいかなと、思ってて」
  語尾がぼそぼそになった。
「まじで」
  紗絵は広い道路の向こう側にある生垣を、じっとにらんだ。 アキにいはいい人だ。 もてるが、問題を起こしたことはない。 一方自分は、これまで一人も、ただの一人も付き合うことなしに生きてきた。
  このまま行くのはさすがに寂しいなあ、と紗絵は思った。 いまさらくどくど説明する必要のないアキにいなら、恋人にしやすいかもしれない。 いつまで続くかわからないが。
「一晩考えさせて」
  ぽつりと紗絵が言ったとたん、アキにいの眼が輝いた。
「言ってみるもんだなあ! だめもとだと思ってさ。 わーお!」
「あの、まだ答えてないんですけど」
「半分かたむいてるから考えてくれるんでしょ? 明日が楽しみ! 電話くれよ。 飛んでくるから。 おっと、携帯変えたんだった」
  二人は急いで番号を交換した。 アキにいはこれから本読みに入るので、練習場にいかなくちゃいけない。
「月並みなセリフだけど、がんばってね」
「やるっきゃない!」
「最初からテンション高くしてコケないでね」
「わーってるよ!」
  紗絵の髪に手をやって、くしゃくしゃっとしてから、アキにいは信号待ちの交差点に駈けていった。
 
  その夜、小さな部屋で古雑誌をまとめ、明日の回収に出す準備をしていると、メールが来た。
《彼は恋人ですか》
  一行だけだった。 顔文字はない。 床に座りこんで、紗絵は考えに沈んだ。
  うさぎのように赤くなった眼。 無表情な顔。 振り向いて目に入ったあの光景は、アキにいと食事している間ずっと胸に住み着き、ちくちくと針を刺していた。
  それは今も同じだった。 榎田真樹は紗絵をからかったのではなく、本気で交際したがっていたのだ。 変身した紗絵を見て態度を変えなかったのは、男子社員では社内で真樹ひとりだけだった。
  このまま黙っていたら、私があんないい人を傷つけることになる――紗絵の手が、ためらいながら携帯電話に伸びた。 指が素早く動いた。
《彼は久慈という人で、学生時代からの友達です。 まだ付き合ってはいませんが、これからそうなりそうです。 彼なら安心して付き合えるんです。 胸にある火傷のことを知っているから》
  最後の一行を入力した後、紗絵はなかなか送信する決心がつかず、ずいぶん悩んでいた。
  それでも、押した。 真樹は言いふらすような人柄ではない。 そう信じられた。
  だが、思ってもみない反応が、直後に現れた。 メールを送ったとたんに返信が来た。
《すぐ行きます! 今どこですか?》
  へっ…… 携帯電話を握りしめたまま、紗絵は糸で吊られるマリオネットのように、ずるっと立ち上がってしまった。
  メールはせわしなく続いた。
《会いたい。 どうしても話したいんです》
《お願いします! 今どこ?》
《頼みます。 お願いです!》
  どうしよう…… 胸と背中にクマのついたパジャマ兼室内着のまま、紗絵は部屋をうろうろした。 同じような文面がすでに10。 このまま行くと一晩中続くだろう。 放っておく度胸があるなら最初から言い訳はしない。 困りきった紗絵は、ぽとぽとと打ちこんだ。
《自宅です。 どこで待ち合わせしますか?》
  10秒後、ピンポンとチャイムが鳴った。

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