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僕の選んだ人 2



 榎田真樹はあきらめなかった。 女にはあれほど淡白だった青年が、高城紗絵には別人のようにつきまとった。 グラインダーや精密定規を作っている比較的目立たない会社とはいえ、榎田工業はこの業界では大手。 そこの跡継ぎが、よりにもよって『ジミ高』を追いかけまわしているといううわさは、あっという間に隣の製版会社でまで評判になった。
  しかしながら、真樹が誘えば誘うほど、ジミ高はますます地味になった。 目立たぬように急いで仕事をこなし、昼休みは誰にもわからないように姿をくらまして、秘密の場所で自作の弁当を広げた。 終いには、真樹と顔を合わせないですむように、廊下を遠回りしていたのだが、そこまでしたのに、結婚申し込みから一ヵ月後の金曜日の昼、とうとう真樹につかまってしまった。
  裏庭のベンチに腰かけてランチボックスを出したとたんに、木陰から声がかかった。
「ここにいたんだ! 最近食堂で出会わないと思った」
  紗絵の顔が一瞬痙攣〔けいれん〕した。 おそるおそる頭を上げると、すぐ前に真樹のにこにこした顔が見えた。
  真樹はさっそく紗絵の隣に座りこみ、明るく言った。
「お弁当もいいけど、冷えるのがちょっとね」
  紗絵は、まだ手をつけていないランチボックスの蓋を閉めると、真樹の方を見ずに静かに言い返した。
「ここは誰もいないから、お芝居の必要ないでしょう?」
  驚いて、真樹は体を前に倒し、紗絵を覗きこんだ。
「芝居?」
「ええ」
  紗絵は無表情のまま、はっきりと言った。
「本命はどこにいるんですか? 秘書室ですか?」
  一呼吸置いて、真樹は笑い出した。 本心から愉快そうに。
「ダミーだと思ってたんだ!」
  紗絵はすっと立ち上がった。 真樹もすぐに続いて立った。
「違う。 そんなんじゃない。 他の人なんてどこにもいない。 紗絵さんと堅実な家庭を築きたいんだ」
  高城さんがいつの間にか紗絵さんになっている。 紗絵の額に縦皺がキュッと寄った。
「榎田さんにあこがれてる人はたくさんいます。 私には特にそういう望みはありませんから、他を当たってください」
「僕は紗絵さんにあこがれてるんだけど」
「私のどこにですか」
  悪びれずに、真樹は答えた。
「堅いところ。 それに、人に左右されないところ」」
「冷静ですね」
  紗絵の頬に、珍しく薄い笑みが浮かんだ。
  「人を好きになったら、あなたのようには振舞えない。 堂々と追いかけたり、ここがいいなんて落ち着いて分析なんてできない。 何が目的なのかわかりませんが、もう放っておいてください。 私は不器用なので、気が散るとミスをしそうなんです」
「僕のどこが具体的に嫌い?」
  真樹は心配そうに尋ねた。 紗絵の顔から笑いが引っこみ、また無表情に戻った。
「好きでも嫌いでもありません。 失礼します」
「ちょっと待って」
  不意に前に立ちふさがられて、紗絵はたじろいだ。
「何ですか?」
「付きまとうのは止める」
  真樹は妙に真剣な表情だった。
「その代わり、ケー番教えて」
「?」
  素早くポケットから携帯電話を引き出して、真樹は紗絵にせまった。
「さあ、この番号にかけて」
「はあ?」
「今すぐかけて。 そうしたら、僕はひとまず消えるから」
  工作室の裏手まで追いつめられて、背中が壁に貼りついた。 人気のないところを選んで食べに来ているのだから、助けてくれる社員がいるわけはない。 やむなく、紗絵はメタルカラー、ストラップなしの携帯電話をバッグから取り出して、ぽつぽつとボタンを押した。
  10センチと離れていないところで呼び出し音がするのは、変なものだった。 うまくかかったのを見定めて、真樹は会心の笑みを浮かべてうなずいた。
「よし! ありがとう、紗絵さん。 ついでにメルアドもね」  コイツ本当に強引だ。 一歩譲れば三歩押してくる。 もう攻め込まれてしまったので仕方なく、紗絵はぼそぼそと教えた。
「わかった、メール必ず見てね。 じゃ」
  真樹は意気揚揚と去って行った。 口笛を吹きそうな後ろ姿を眺めながら、紗絵は息を吸い込み、続いて深く吐いた。 ほっとしているのか、これからの新しい作戦を心配しているのか、どちらとも取れる溜め息だった。

 その夜、アパートの小さな部屋の、ままごとのようなユニットバスから出てきて、長い黒髪をタオルドライしながらクッションに座りこんだ紗絵は、なんとなく携帯電話を開いた。
  メールは、ちゃんと来ていた。
《もううちに帰りつきましたか。 ボクはまだ仕事中です(^_^;) サエさんに会いたいな。 一杯付き合ってほしいです》
  顔文字だ!――紗絵は眉を寄せて画面をにらんだ。 軽い。 真樹は社交的で、いかにも軽かった。 あれで仕事ができなかったら、口もきいてやらないんだが。
  それからしばらくは、夕食、後片付け、洗濯でつぶれてしまった。 昼間働いていて外に干せないから、乾燥機つきの洗濯機をちょっと無理して買った。 だから乾いた洗濯物を取り出して畳むだけなのだが、これが意外と時間を取る。 畳んで、仕分けして、アイロンがけして、引き出しにしまって、とやっている内に11時を過ぎた。
  携帯電話がうめいたので見ると、またメールが届いていた。
《9時のメールは届きましたか? なんか不安です。 ひとことでいいから返信くださいm(_ _)m サエさんがだいすきです》
  小学生か!――なぜかたどたどしい文面に思わず笑ってしまって、紗絵はあわてて顔をつくろった。 別に誰かに見られているわけではないのだが。
 
  これまた小さなベッドにごろんと横たわると、紗絵は体をよじり、不自然な姿勢のまま電話を持って考えた。
  返事、出すべきか、やめるべきか。
  これまで通り、無視するのが一番いいような気がした。 少しでもつながりを持つと、どんどん攻め込まれるだろう。 それは困る。
  だが、追っても追ってもついてくる、いじらしい迷い犬のような青年に、心が惹かれるのは仕方なかった。
「私はオニじゃないもの」
  ふと、ずんと床が抜けたように寂しくなった。 好きになれたらどんなにいいだろう。 私がもし、こんなじゃなかったら…
  ザッと音を立てて掛け布団をはねのけると、紗絵は荒っぽくメールを入れ始めた。
《お仕事おそくまでご苦労様です。 私のことはどうかご心配なく。 おやすみなさい》

 それから毎日、メールは届いた。 給湯室や行き返りの道筋でそっと見ているうちに、だんだん習慣みたいになってきて、紗絵は心が落ち着かなくなった。
  もう真樹は表立っては追いかけてこない。 だから数日前までのあの振舞いは、『気まぐれ』か『ご乱心』か、または誰かとの『賭け事』だったのだろうと噂が流れていた。 絶対落ちない相手を落としてみせる、という賭けだ。 真樹が本心から紗絵を求めていたと思う人間は、少なくとも紗絵の近くには一人もいないようだった。
  多数決、というわけではないが、紗絵自身もほんとに愛されているとは思えなかった。 だからといって、ふざけるな! と社長の息子をコテンパンに振ったら、もう会社にはいられないだろう。 この不景気に仕事をなくすわけにはいかない。
 もう、こうなったら、どこかで恋人を調達してくるしかないな――紗絵は気の重い決断をせまられた。

  兄の友達に、久慈明之という小劇場の役者がいた。 大学時代からの悪友なので、紗絵の事情を知っている。 今、カワサキのバイクを猛烈に欲しがっているから、万札ウン枚で恋人役を引き受けてくれそうだ。
  いちおうきちんと手順を踏んで、紗絵はまず兄の浩太に電話をかけた。
「もしもし、浩ちゃん?」
「なんだ、妹」
「アキにいの最新の恋人、焼き餅焼きかな」
「なぜそんなことを訊く」
「ん? 恋人になってほしいから」
「やめておけ。 あの男は剣呑だ」
  池○正太郎の時代小説マニアなので、言葉遣いが江戸に入り込んでいる。 毎晩、晩酌代わりに読んでいるらしく、日に日に言葉遣いがタイムスリップしていた。
「浩ちゃんそのうち、脇にニ本差して歩き回ったりしないだろうね」
「そこまで血迷うか。 これでも国家公務員だ」
  浩太は某区役所の土木課勤めなのだった。
「地方公務員でしょ?」
「そうとも言う」
  そうとしか言わないよ、という言葉を飲みこんで、紗絵は頼んだ。
「ほんとの恋人しゃないよ。 ふり。 2日か3日、会社に来てくれればいいの」
「なんだ、それ?」
  不意に現代人に戻って、兄は頓狂な声を出した。

  説明するのに10分、納得してもらうのに更に10分かかった。 浩太は電話の向こうでいじけているようだ。 紗絵の『事情』に自分が深くかかわっているから、どうしても胸が痛むらしい。 気分を直してもらうのに、もう10分かかってしまった。
「だから、誰も浩ちゃんを責めてなんかいないよ。 そのうち本物の恋人作る。 ひがんでるわけじゃないの。 ただ今度の相手は水準高すぎだから、ね?」
「あ―――っ」
  電話の向こうで叫んでいる。 落ち込むとときどき遠吠えが始まる。 近所迷惑なので、切ることにした。
「浩ちゃんからアキにいに話してみてね。 もしやってくれるなら、私とこに電話してって」
「俺さ、前から疑問に思ってたんだけど、なぜ久慈がアキにいで、本物の兄上の俺が浩ちゃんなんだ?」
  不意に浩太が冷静に突っこんできた。 紗絵は電話口でフフンと笑った。
「ふたごの片割れを兄ちゃんなんて呼べるか! それにアキにいは2浪してて、年上じゃない」
「それにしても……」
  まだぐだぐだ言っていたが、かまわずに切ってやった。

 翌日の午前、仕事中なのにおかまいなく、アキにいは電話をかけてきて、言った。
「いいよいいよ。 二つ返事でひきうけてやるよ。 なんなら本物になってやっても」
「結構です」
  ぴしゃりと言うと、紗絵は口早に会う場所を決め、事務的に電話を切った。

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