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僕の選んだ人 4


 紗絵はドアに忍び寄った。 心臓が胸郭の中で暴れまわっている。 まさか真樹ではないだろうと思ったが、たとえ誰でも夜の10時過ぎに尋ねてくる人間を中に入れたくはない。 金属のドアに耳を当てながら、つぶれた声で尋ねた。
「誰ですか?」
「榎田です」
  低い声が返ってきて、紗絵ははじき飛ばされたようにドアを離れた。
  信じられない! ワープしてきたのか?!
  低い声は少し張りが出て続いた。
「電話でもメールでも言えないことがあるんです。 聞いてくれませんか?」
  紗絵は洗ったばかりの髪をかきむしりたくなった。 ピンクの巨大クマつきの格好で出ていけるか! まったく!
  誕生祝いにこんな物をくれた兄のセンスと、もったいないからとつい着ている自分のケチくささを呪いながら、紗絵はほんのちょっとドアに隙間をあけて、顔だけ出した。
  外廊下に立っていたのは、たしかに榎田真樹だった。 心なしか青い顔をしている。 眼が合うと、からめ取られたように視線を外せなくなった。
  まばたきせずに見つめたまま、真樹は尋ねた。
「全然覚えていないんだね。 そんなに僕、変わった?」
 
  紗絵の口が開き、また閉じた。 まだ視線を外さずに、真樹は抑揚のない声で言った。
「まあくん、と言ったら思い出してくれるかな」
  びくっとした。 背中が引きつれ、喉に妙なかたまりが詰まった。 まあくん…? ミイラのように顔を包帯でぐるぐる巻きにされ、ベッドの端にうなだれて座っていた小さな姿が、不意にスクリーンのように脳裏に広がった。
 
  ピンクのクマを気にする状況ではないらしい。 紗絵はぎこちなくドアを開き、小声で言った。
「どうぞ」
  小さく頭を下げると、真樹は中に入った。
  うつむいて靴を脱いでいる真樹に、思わず紗絵は話しかけていた。
「まあくんって、石崎丸第一病院にいた、あの……」
「そう。 顔が動かなかった、あの子」
  紗絵は思わず眼をつぶった。
「言ってくれれば……」
「思い出したくないみたいだったから。 お互い、どん底だったもんね。 サエっぽは明るく見えたけど、今考えると」
  サエっぽ――そう、まあくんにもそう呼ばれていた。 呼んでくれと頼んだのだ。 できるだけ声を出せるように。 まあくんは顔の大怪我で、口の横の筋肉が麻痺していた。
 
  これまでアパートに来た客といえば、兄とアキにい、気のおけない女友達2,3人ぐらいなので、椅子がない。 紗絵はよく兄が丸めて枕にしている大きなクッションを床に敷いて、座ってもらった。
「ええと、コーヒーか何か」
「座って」
  真樹が頼んだ。 ぎこちなく、紗絵は自分用の座布団に膝を折った。
「サエっぽにはいつも浩太さんが付きっきりだったよね」
「アイツ、自分が火を出したから、すごく気にしてて」
「うん、そう言ってた」
  ふたりともうつむき加減になった。 もう14年前になる。 あの年の二倍生きてるんだな、と思うと、紗絵は奇妙な気分になった。
  14歳のとき、浩太は荒れていた。 両親が離婚寸前で、双子をどう分けて引き取るか、ケンカを繰り返していたせいだろう。 わざと酒を飲み、煙草を吸いまくり、とうとう寝煙草で家を燃やしてしまった。 家は半焼ですんだのだが、すぐ隣の部屋で寝ていた紗絵は逃げ遅れて大やけどを負った。
  あちこちの皮膚を移植した。 顔は本能的に腕でかばったのだろう。 ほとんど損傷がなかったが、背中と胸はひどかった。 10年以上過ぎた今でも、右胸にはケロイドが残っている。 中学時代に男の子たちがつけた仇名は、思い出したくもなかった。
「4回、形成外科で手術した」
  真樹がつぶやいた。
「なんとか元の顔に戻そうと必死だったんだろう。 うちの親父も」
  膝に置いた手に血管が浮き出て、白くなっていた。
「何が起きたか話してないよね。 母親が浮気して、修羅場になって、親父の投げたハサミが顔にささった」
  ぞっとして、紗絵は硬直してしまった。
「母の化粧台の鏡に映った自分の顔が忘れられない。 今でも気分が悪いときや疲れたとき、夢に見るんだ。 建物から戸外に出るときに、ためらうことがある。 年とともに手術跡が出てくるんじゃないか、皮膚がひきつれて傷跡が見えてくるんじゃないかって」
  そこでようやく真樹は顔を上げた。 疲れた寂しい表情だった。
「こんな作り物の顔、ほめられたってうれしくない。 親父に金があったから作り直せたんだ。 あのときのままだったら、今ちやほやしてくれる女の子の何人が、そばに来てくれるかな。
  右半分まったく動かない、妖怪みたいな顔だったのに、サエっぽは気にしてなかったね。 ほんとに自然に話しかけてくれた。 母親が逃げちゃったから、身近にいる女の人はサエっぽだけで…… 大好きだった」
  紗絵はあやうく涙が出そうになって、慌てて横を向いた。
「まあくんはまだ子供だったよ。 11ぐらいでしょう?」
「子供でも恋はするよ」
  そう言うと、真樹は膝を立てて両腕を巻き、顎を載せた。
「3つ違いだから、中学でも高校でも一緒になれなかった。 大学は女子大に入っちゃったから、まただめで、だからサエっぽのゼミの先生と仲良くなって、親父の会社を推薦してもらったんだ。 この不景気だから、入ってくれると思った。 うまくいったときは、ガッツホーズしちゃったよ」
  なに……何だって……?
  あまり驚いたので、涙が鼻までで止まってしまった。 真樹はゆっくり体をゆすり始めた。 自然に出る癖らしい。
「初めはそばで見てるだけでよかった。 なんか、家族みたいな気持ちで。
  そのうち、好きになり直した。 変な言葉づかいだけど、本当に。 サエっぽは手抜きをしない。 書類が他の人にもちゃんとわかりやすいようにまとめてあるし、特記事項にはメモがついてる。 飲み会の幹事押しつけられたときも、きちんと計算して店の子にチップ渡して、酒のこぼれたテーブルをさりげなく拭いて。 あれ全部、一緒に幹事やった佐藤礼子の手柄になってるけどね」
  会社で一番かわいい礼子だから無理はない。 他の人の評価より、真樹が自分を認めていてくれたことが、紗絵にはうれしかった。
「うちの母は、要領いい人だった。 人前ではにこにこしてて、目立つところでは親切で。
  でも、客が帰ったとたんにさっと態度変えて悪口を言い出すんだ。 こわいぐらいだった」
「誰でもそういうところあるよ」
「そうかな」
「人付き合いは疲れるから、ストレスたまって、つい本音が出るってことも」
「やさしいね、本当に」
  真樹は膝に手を載せ、甲に額を置いて、眼をつぶった。
「これで僕の話は終わり。 本音だよ。 サエっぽがさっきのいい男と付き合うんなら、もうどうしようもないんだね」
  紗絵は唇を噛んだ。 別にアキにいに恋をしているわけではない。 男として誰が好きだと訊かれたら……
『あなた方のエノッキーを取ったりしませんよ』
  昼間の自分自身の声が耳に鳴り響く。 紗絵は思わず頭をぶんぶんと揺らして、記憶を振り落とそうとした。
「アキにいは、浩太の友達で、気を遣わなくていいから」
「それだけ?」
  思わず紗絵はうなずいてしまった。 不意に真樹が座りなおした。 眼がきらめいた。
「もう一度だけ考えて。 僕じゃ絶対に嫌?」
「初恋は実らないって言うでしょう?」
「人のことなんて知らないよ!」
  真樹の声が大きくなった。
「一回しか生きられないのに、他人の経験なんて役に立つか!」
  一回しか…… そう、確かに人の意見は参考にしかならない。 なんのかんの言って逃げてるだけじゃないか。 紗絵には後ろ向きな自分がわかっていた。 求めなければ、何も手に入らない。 タナボタなんて、まずないのだ。
「じゃ……ためしにデートしてみようか?」
  おそるおそる口に出したとたん、真樹の表情が一変した。 どっと額に汗が吹き出し、唇がふるえた。
「ああ……」
  そのまま彼が、小さなひし形のテーブルに突っぷしてしまったので、紗絵は驚いて中腰になった。
「な……なに?」
  顔をテーブルに押しつけたまま、真樹がうめいた。
「心臓とまるかと思った。 来て、よかった!」
  そして、のろのろと手を伸ばすと紗絵のジャージを捕らえ、膝に引っぱり下ろすなり、激しく抱きしめた。
 

(おわり)



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