表紙
明日を抱いて
 037 見知らぬ子




 ジェンは立ち止まり、小首をかしげた。 今の声は、どこかで聞き覚えがある気がする。
 すぐ思い当たった。 アールがかんしゃくを起こしたときの声に似ているのだ。 双子と兄は町へ去ったものの、面白くなくて一人でこっそり戻ってきたのかもしれなかった。
 少し用心しながら、ジェンは昼食用のバスケットを抱えてゆっくり斜面を降りていった。 厚く地面を覆った落ち葉が、靴の下でかさこそと音を立てる。 途中で傾斜がきびしくなって、ずるっと足がすべった。
 そのままつんのめるようにして、ジェンは楓の大木まで小走りに下りていき、太い幹に肩をぶつけた。 それでも何とか転ばずに止まったのでホッとして周りを見ると、すぐ横のブナの木に見知らぬ男の子がもたれていた。
 反射的に、ジェンは彼に微笑みかけた。 二人のすぐ前を小川が流れていて、川面が夕日を受けて淡いオレンジ色に光り、男の子の強ばった顔をやわらかく照らしていた。
「こんにちは」
 ジェンは人なつっこく話しかけた。 少年がアールではなかったので、用心すべきかとも思ったが、彼はまったくの素手でぶっそうなものは持っていなかったし、着ているデニムのオーバーオールとネルのシャツも清潔で、ちゃんとした印象だからあまり警戒しなかった。
 すると男の子は、頭に載せたくしゃくしゃの縁なし帽を取り、低い声で挨拶した。
「どうも」
 ジェンの笑顔が本物になった。
「急に来てびっくりさせた? あなたの声が同級生に似てたんで、まちがえちゃったの」
 少年は川を振り向いて眩しそうに眼を細めた。
「ここには僕しかいないよ」
「そうみたいね。 人違いだったわ」
 そこでぎこちない間が空いた。 彼はあまり社交的ではないらしい。 邪魔しちゃったな、と思いながらジェンがバスケットを持ち直して去ろうとしたとき、急に呼び止められた。
「ねえ、君はあそこの中学の人?」
 まだ体を反転させたまま、ジェンは肩越しに振り返って答えた。
「そうよ」
「あ」
 少年は息を呑むようにしてうなずいた後、がさっと落ち葉を鳴らして近づいてきた。
「来週あそこに転校するんだ」
 ジェンは目を丸くした。
「そうなの? 何年生に?」
 「三年」
 どこか面白くなさそうに、少年は答えた。 ジェンはますます驚いた。 彼はすらりと背が高く、高校一年といっても大きすぎるぐらいに見えたからだ。
 口に出さない疑問に、少年のほうが答えた。
「年はもうじき十五なんだけど、学校へ行ってなかった時期があって」
 ああ。 ジェンはすぐに納得した。 町の学校でも、親の転職などの事情で学校に通えなかった子が、学年を遅らせて入ってくることが時々あったのだ。
「ゲインズフォードはいい中学よ。 乱暴な子はいないし、先生方は熱心だし」
「ふうん」
 熱のない調子で応じた後、彼は不意にニコッとした。 その笑顔が目に入ったとたん、ジェンはたじたじとなった。 無表情にしていると少しとっつきにくい顔が、見違えるようにまばゆく見えたのだ。
「君は何年生?」
「私も三年よ」
「へえ。 組はいくつある?」
「二つ」
「すると五割の確率か」
「え?」
「いや、なんでもない」
 彼はもう一度ジェンに微笑を投げ、右手を軽く上げた。
「じゃ、来週学校で」
「ええ、でもあなたの名前は?」
 答えはなかった。 少年は手に提げていた上着を肩に放り上げ、大股で川岸を駆け下りると、あっという間に姿を消した。  





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