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13


 心臓が止まるほど驚いて、ミリアムはさっと顔を上げた。
「でも、テンプル騎士団は長くあなたを離したりしないはず。 それに、女を囲っていると知られては……」
「囲うだと!」
  ブレーズの眼が火を吹いた。
「わたしの妻、ただ1つの慰めになる人を、誰がそんな目に遭わせるものか!」
「妻……!!」
  ミリアムは気が遠くなりかけた。
「ヘブライの民が騎士の奥方になどなれるはずは……」
「ヘブライの神もわれらの神も、元を正せば同じもの」
「そんな理屈が騎士団に通用しますか?」
  固くミリアムを抱きよせて、ブレーズは勢いよく言った。
「騎士団への義務は終わった。 もう用はない。 テンプル騎士団は奴隷と同じだ。 妻は得られず、子もなせない。 前はそれで平気だった。 しかし今では虫唾が走るほど嫌だ!
  幸い、長い奉公で貯めたものがいくらかある。 グラナダに土地を求めよう。 このような狭い島国より、ピレネーの向こうのほうが遥かにのびのびと暮らせるんだ。 行こう、ミリアム!」
  ミリアムはこわかった。 幸せすぎて恐ろしかった。
「きっと後悔します。 私のために出世を失ったと」
「出世?」
  低く乾いた笑いがミリアムの耳を打った。
「出世を求めていたら、誰が今度の憎まれ役を買って出るものか! わたしは自分を罰していたんだ。 もう6年になる。 しかし苦しみは薄らぎはしたが、消えようとはしなかった。 こうして愛しい人にめぐり逢うまでは……」
  黒い滝のような髪に頬ずりして、ブレーズは憑かれたようにささやき続けた。
「ミリアム、シャロンのバラ、可憐な乙女よ、わたしがどれほど想っているか、おそらくわかってはもらえまい。
  父上とともにわたしが初めてこの家の門をくぐったとき、小鳥のようにさえずりながら飛び出してきたな。 あのときわたしは、一目で心を奪われてしまった」
  男の手が脱ぎ捨てた服に伸び、内側から一枚の布を引き出した。 それは、レジナールを懲らしめてくれと頼んだとき、ミリアムがお守りとして渡した、あのスカーフだった。 ブレーズは、なくしてなどいなかったのだ。
「これを形見に持っていこうと思っていた。 リュックの城で会ってしまった以上、憎まれ、嫌われるのは目に見えていたから。 だが、なかなか立ち去る気持ちになれず、このあたりをさまよっていた。 本当に、さらってしまいたいとさえ思った!」
  うれしくて、再び涙がミリアムの眼を覆った。 ブレーズは笑い、その涙を指でやさしく払った。
「正体を見破られてほっとしたと言うのも何だが、心からうれしい。 だが不思議でもあるな。 あの暗い大広間で会った寺侍と、いつも顔を隠していた巡礼とが同じ人間だと、いったいどこでわかった?」
「眼で」
と、ミリアムは即座に答えた。
「あなたは夢見るように優しい眼をしています。 他の誰にもない、特別な眼を」
  ブレーズはわずかに首をかしげた。
「本当に? 信じられない。 大鷲のように鋭い無情な目だと言われたことは何度もあるが」
  そこでブレーズは気付いた。
「そうか……隠そうとしても、気持ちが目に表れてしまっていたのか」
  ミリアムは少しすねて、口をとがらせた。
「でも途中までは、嫌な思いをしたんですよ。 ほら、もう一人のあなた、誰だか知らないけど巡礼の身代わりになっていた人、あまりにも無愛想で」
  ブレーズは声を立てて笑い出し、あわてて口を押さえた。
「アンガスか。 あいつは部下で、影武者でもあるんだが、どうも調子が外れていて、賢いんだか馬鹿なんだか、4年付き合っているがよくわからん」
「アンガスというんですか、あの人は」
「そうだ。 許してやってくれ。 本当はエニッド姫をさらってくるはずが、黒髪の美人だったので、どうしたらいいかわからなかったのだろう」
  ミリアムの顔が、ぱっと明るくなった。
「それでは……」
「その通り。 悪党のサンジュストが女をさらって城から出るのは、最初からの計画だったんだ。 ただ、姫を助けないで、もっと助けたい人を連れ出しただけで」
  ああ――ミリアムは限りなく幸せだった。
「あの姫は強い。 残しても大丈夫だろうと、勝手に決めた。 その前にうっかり顔を見られてしまったので、連れ出しにくかったというのも事実だが」
  計画を危うくしたのは、どうやらエニッド姫のほうらしかった。 ミリアムはそっと言ってみた。
「でも、エニッド様は稀な美人ですよね。 そう思いません?」
  ブレーズの表情が動いた。 またたく間に頬がそげ、眼が落ちくぼんだようになった。
「確かに美しい。 わたしが殺したある女にそっくりだ」

  ミリアムは息を殺し、じっと恋人を見つめていた。 今こそ謎が解ける。 これほどの騎士がなぜ故郷を捨て、辺境の騎士団に身を投じることになったのかがわかる。
  ブレーズは右手をミリアムから外し、じっと手のひらに見入った。
「そう……この手で刺し殺した。 あれほど憎んでいるとは自分でも思わなかった。 あの女がすべての悪の源に思えた…… だが、いざ殺してみると……」
「誰より大切だった」
  ミルアムの声にならないささやきを聞き取って、ブレーズは我に返った。
「違う! わたしは妻を愛したことはない! 殺した後も、哀れにさえ思えなかった! ただ恐ろしかった。 恐ろしかったんだ!」
  ブレーズは震えていた。 ミリアムは身動きできずに彼を見上げていた。
  やがてブレーズは、感情を殺した声で話し始めた。
「乾いた小さなブドウ畑と干からびた丘しか持たない貧乏貴族の長男だったわたしは、子供のころ始終飢えていた。 出世のために、金持ちの騎士の城に奉公に出たが、門地がなく、愛敬もないので、何かにつけていじめられた。 そのとき、こっそり食べ物を持ってきてなぐさめてくれたのが、ブリトン人の召使だった。 苦しいときの助けがどんなに嬉しいものか、わたしは身にしみて知っている」
  ミリアムの胸が同情で痛んだ。 そっとブレーズの手を取って唇をつけると、彼の震えは大きくなった。
「妻は本当に美しい女だった。 午後の太陽のような金色の髪で、たおやかな体つきをしていた。 家柄もよく、持参金がたっぷりついていた」
  ミリアムはなんだか悲しい気がしてきた。
「すばらしい奥方ですね」
「回りから見ればそうだろう」
  ブレーズの声が荒々しくなった。
「しかし問題は、妻自身が誰よりもそう思っていたことだ。 妻は、自分には欠けるところはないと思っていた。 男はみな自分をちやほやしてしかるべきだと。
  わたしは一目で妻を嫌った。 無骨者なので心がそのまま顔に出たらしい。 妻は怒ってわたしを侮辱した。 わたしも言い返して、とうとう泣かせてしまった。
  しかし、それが逆の結果になった。 向かうところ敵なしだった娘は、わたしに好かれていないと知ると、むきになった。 そして父親を説得して使いをよこし、うちの父に縁組を申し出た。
  まったく馬鹿げた意地だ。 本心から好きでもない男をがんじがらめにしてどうしようというのだ。 わたしは断固拒絶した。
  ところが父は我がままだと激怒し、3日3晩わたしを水だけで地下室に閉じ込めた。 わたしはまだ若く、空腹に耐えられなかった……
  こういう結婚がうまくいくと思うか? 誇りを傷つけられ、怒りで逆上したわたしは、初夜の床に行かなかった。 次の日も、また次の日も。 わたし同様に3日3晩妻を打ち捨てておいた後、4日目の晩に重い腰を上げたが、今度は足が前に進まなくなってしまった。
  嫌なんだ。 どうしても妻と顔を合わせたくなかった。 もうどうにでもなれという気持ちで、わたしは夫の義務を放棄してしまった。
  父の言うとおり、わたしは許せない頑固者なのにちがいない。 好きになれないと、とことん駄目なんだ。
  そのうち、妻は男を引き入れた。 わたしはむしろほっとして、見て見ぬ振りをした。 だが妻は、わたしに仕返しをしたかったのだろう。 大っぴらに男と出歩くようになった。
  当然うわさが立ち、わたしは親兄弟に責められた。 仕方なく、初めて妻の寝室に行くと、妻は男と共にいて、私を不能と罵った」
  ミリアムは、騎士の固い背中に両手を回して、腕に顔を埋めた。
「どんなにか悔しかったでしょう」
「確かに腹は立った。 だが、逆上するまでにはならなかった。 わたしは冷静なまま剣を抜き、長い間やりたかったことを実行してしまった。 この女さえいなければわたしは自由になれる――そう思いつづけていたために、脅すだけのはずだった剣が、気がつくと胸に深く突きささっていた。
  共にいた男は、たしかに妻を愛していたにちがいない。 わけのわからない言葉を叫びながら、素手で飛びかかってきた。 最後は刀を抜いた切り合いになったが、とどめを刺せずにいるうちに、その男は自害してしまった」
  ブレーズの声は、本人とは思えないほどだった。
  「家族はわたしの行為に満足したが、わたしはそれどころではなかった。 これは人殺しだ。 夫としての義務を果たさず、相手の貞節を要求して許されるものか!
  わたしは家督を譲り、国を出た。 二度と帰ることはないだろう。 わたしは自分を追放したんだ。
  その日から、金髪の女性を見ると、胸一杯に広がった血が重なって、どうにもたまらない気持ちになった。 特に金色の長い髪の女、エニッド姫のような…… ああいう人に会ってしまうと、いつも思った。 この手を血に染めて殺した妻に呪われているんだと……」
  深い哀惜の念で声を詰まらせながら、ミリアムは騎士の手をしっかりと掴んだ。
「それが奥様の復讐だったのです。 私にはわかります。 私も女で、奥様と同じにあなたを愛しているから」
  ブレーズは眉を寄せてミリアムを見返した。
「今、何と?」
「奥様は心底あなたが好きだった。 強引にお輿入れしたのは意地からではなく、そうせずにいられなかったから、それに、そうするだけの力があったからです。 
  でも、追えば追うほどあなたは離れていく。 それで奥様はやけを起こしてしまったんです。
  あなたは心の深いやさしい方。 他の殿方なら時と共に薄らぐ痛みも、あなたには致命傷になります。 奥様は、あなたに自分を殺させることで、永久に心に残ろうとなさったんです」
  肩を落とし、眼を閉じて、ブレーズは低く呟いた。
「そうだろうか…… そうなら復讐は見事に成功したわけだ。 わたしは本当に苦しんだ……」
「もう苦しまないで。 あなたは私を愛し、慈しんでくださった。 これは天に帰った奥様があなたを許した証ではないでしょうか。 だからあなたも奥様を許してあげてください。 もう憎まないで」
  眼を閉じたまま、ブレーズはかすかに微笑んだ。
「その言葉は香油のように心を癒してくれる。 エドワードが魂を奪われたのがよくわかる」
  とたんにミリアムは憤慨して身を起こした。
「いいえ! あの人は器量自慢のうぬぼれ屋です! イングランド一番のお姫様と縁組できたのに、一週間もたたないうちに浮気しようだなんて!」
  ブレーズは敷布に顔を押しつけて笑い始めた。
「ミリアム、ミリアム! 人の気持ちはよくわかるのに、自分のこととなるとまるで気がつかないんだな。 それに彼は確かに美しい。 わたしの数倍きれいな男じゃないか。 心は動かないのか?」
  ミリアムはつんとして顔をそらした。
「私たちは金髪を好みません。 それにご存じの通り、豚には近づくことも許されません。 それなのにエドワード様は」
  顔がしかめられた。
  「豚肉が大好物なんです。 朝から子供の顔ほどもある切り身を食べていて、それがいやで私が近づかないでいると、わざと肉を手に持って追いかけてきて、私を転ばせてしまったんです。 それ以来ずっと、エニッド姫が輿入れされるまで、私一度もあのお屋敷に行く気になれなかったんですから」
「なんと!」
  ブレーズは本格的に笑い出した。


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