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 男の子が巡礼を連れて行ったのは、町の目抜き通りの中ほどにある、二階建ての旅籠〔はたご〕だった。 少年に導かれるまま、巡礼は狭い階段を上った。
  木の扉を開いたところで、巡礼の足は止まった。 若草の色をしたドレスをまとったたおやかな姿が、窓のすぐ近くに座っているのが見えた。
  それは、エニッド姫だった。 槍試合の客席で一番人気だった美人だ。 2人の侍女を横に置き、エニッドは巡礼に顔を向けて微笑すると、ちょっとたどたどしいが可愛い響きのするフランス語で言った。
「ようこそ。 さあ、こちらへ」
  巡礼はためらいがちに中に入ったが、ドアは閉じずに立ったままだった。 姫はじれったそうに手招きした。
「さあ、もっとこっちへ。 ドアを閉めてここに座って」
  姫と膝が触れ合うほど近くに置いた椅子を指されて、巡礼は前へ来ずに後ずさりした。
「いえ、わたしは……」
  視線を軽く流しただけでたいていの望みを叶えてきたエニッドは、巡礼のあまりにも奥ゆかしい態度にじれてきた。 それで2人の侍女に目配せした。
  心得たもので、ふたりは笑いをかみ殺しながら巡礼に駈けより、両方から腕を捕らえて無理に部屋へ引きこんでしまった。 侍女のひとりがドアを閉め、もうひとりが椅子に巡礼を押しこめた。
「さあ、お座りなさい!」
  若い娘3人に取り囲まれて逃げ場を失い、巡礼は大きな体をちぢめるようにして椅子に腰をかけた。 とたんにエニッドが手を伸ばして彼の頭巾をはね上げた。
  はっとして顔を上げた男は、まだ若かった。 20代の半ばぐらいだろう。 黒い巻き毛が額にかかり、灰色の鋭い眼を際立たせていた。 美しいというにはあまりにも厳しく、醜いというには端正すぎる。 上品だが近寄り難い顔立ちだった。
  エニッドは稚気が失せて、いくらかたじたじとなった。 男は二度まばたきし、両手を膝に置いてまっすぐ姫を見返した。
「御用は?」
  ふざけかかるような相手ではない。 エニッドは困って、とっさに口にした。
「かすり傷ひとつ負っていませんね。 どこでその強さを身につけたの? やはり十字軍ですか?」
「はい」
  一言のみだった。 だが、そっけない物言いではない。 穏やかな声に少し勇気を回復して、姫はやや子供っぽく尋ねた。
「戦場はどんなふうですか? この近くからも何人か出陣しているので、気にかかります」
  男はうなずき、静かに話し出した。
「フランス王のアンリ2世が国へ戻ったのはご存じですね。 続いて帰国しようとしてリチャード王が神聖ローマ帝国で捕らえられたことも」
「ええ、風の便りで」
「リチャード王は勇猛でした。 部下の人たちも怖さを知らない武士が多く、おそらく他のどの国よりも戦果は大きかったでしょう」
  サクソン出身の姫は、自国の友が気にかかった。
「ワットは、つまりウォルター・ハンコック卿は? 知っていますか?」
  男はうなずいた。
「はい。 彼は特に勇敢でした」
  エニッドはほっとして息を弾ませた。
「私のいとこなのです。 うれしい。 もう軍は引き上げてくるのでしょうね? 司令官がいないのだから」
  それは巡礼には明言できなかった。
「私にはわかりません。 ただ、彼らが戻ってくるのはヴェネチアからジェノヴァ、それにフランスを経由する長い道のりですから、そう早くは戻れないと思います」
「ほんとに大変。 神を護るのは容易ではありませんね」
  かわいい口で、エニッドは溜め息をついた。
  知っていることは話したのでほっとして、巡礼は立ち上がりかけた。 そのとたん、エニッドは彼の袖を大胆に掴んだ。
「待って。 これからもう用事はないのでしょう?」
  中腰のまま、男はエニッドを横目で見た。
「いえ、実は……」
「逃げなくてもいいんじゃない? ここにいるリスベスは蜂蜜入りのお菓子を作るのがうまいのよ。 もしあなたが甘いものを嫌いなら、フランスのワインだってあるし。 ねえ、これから夜までご一緒しましょう」
  男はそっと袖を引きはがしにかかった。
「もったいないお申し出ですが、今は精進潔斎していますので、酒や菓子などはいただけません」
  これまで男に断られたためしのないエニッドは、まずあっけに取られ、それから柳眉が逆立った。
「あの、私の招待が受けられないということ?」
「はい」
と男は言い、爪を痛めないようにごく優しくエニッドの指を袖から外して、静かに出ていった。


 階段の上で頭巾をかぶり直すと、男は肩でひとつ大きく息をしてから、すべるように降りていった。
  旅籠の扉をあけると、まだ中空に高い太陽が眩しく眼を射た。 巡礼は顔をそむけ、大股で歩き出した。
  その前に、不意に男が立ちふさがった。 人目のある通りの真ん中だ。 巡礼は足を止め、頭巾の陰から相手を見た。
  それは長身の若者だった。 青いシャツに鹿皮のヴェストを着て、背に数本の矢を背負っている。 手には使いこんだ石弓を持っていた。
  彼は眼を見張るほど美しかった。 男としては長めの金髪が肩近くまで垂れているが、女っぽくは見えない。 形のいい鼻と、夢見るようなダークブルーの瞳が、少年ぽさの残る顔立ちに華を添えていた。
  だが、典雅な顔に似合わず、口を開くと荒っぽかった。
「よこせ!」
  巡礼は動かずに尋ねた。
「何を?」
  若者の頬がぴくっと引きつった。
「スカーフだ。 さっき自慢げにひらひらさせていたろう」
  試合場での闘いぶりを見ていたのなら、ずいぶん無謀な言い草だった。 しかし、巡礼は怒らずに、ゆっくりとかたことの英語で答えた。
「あれは、金髪の姫のものじゃない」
  若者はいらだって、顔を真っ赤にした。
「誰のものでも、許せるか! とっとと出せ!」
  むちゃくちゃな要求だ。 土地の娘には誰であろうと指一本ふれさせないという、地元意識丸出しの子なのだろうと、巡礼は思った。
「今は、持っていない」
  そう答えて、彼は踵を返した。 しかし、若者はしつこく裏道まで追ってきた。
「出さないなら、こいつをお見舞いするぞ!」
  そう言うと、彼は素早く矢を一本抜き取って弓につがえた。 巡礼は素早く身をひるがえし、ふところから短い刀を取り出して身構えた。
  そのとき、横手から女の鋭い声がした。
「エドワード様!」
  とたんに若者の眼が落ち着きを失った。 そして、あわてて石弓を前に下げると、くるっと向きを変え、あっという間に姿を消した。
  いったい何だったんだ――内心首をかしげながら、巡礼は声がした方を振り返った。 すると、薄絹を何枚も重ねた盛装姿のミリアムが立っているのが見えた。
  眼が合うと、ミリアムは小走りに近づいてきた。 そして、小さくなって必死で詫びた。
「許してください。 槍試合のことは話でしか聞いたことがなかったので、軽く考えてしまったんです。 私の馬鹿なお願いのせいで、あやうく命を落とされるところでしたね」
  巡礼は首を振った。 頭巾が風になびくように横揺れした。
「戦い方は一応知っていましたから。 最強の者をまず倒しておけば、後はどうにかなるものです」
「私のスカーフなんか、かえって縁起が悪かったですね」
  娘は悲しげに言った。
「自分のしたことが恥ずかしいです。 返していただけますか?」
  ちょっと間を空けて、巡礼はつぶやいた。
「なくしてしまいました」
  自分で返せと頼んだのに、あっさりなくされてしまったことに、ミリアムはがっかりした。
「そうですか……」
  それでも気を取り直して、巡礼に微笑みかけた。
「お疲れでしょう。 夕食をご一緒にどうですか?」
  巡礼はすぐに答えた。
「ありがとう」
  2人は肩を並べて歩き出した。 少し後に控えていたミリアムの従者が、後ろから影のようについていった。

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