表紙



 静かな田園の町、アイルマーに、時ならぬ活気が満ち、いつもはキノコのように道端に這いつくばって見える家々も、朝から人の出入りが多いために華やいでいた。中には表通りに台を持ち出して品物を並べ、盛んに売り込んでいる連中もいた。
  今日は普段の倍は人通りがある。 馬上槍試合が行なわれる日なのだ。
  この日は、町ばかりでなく、腕に覚えのある騎士たちにとっても稼ぎ時だった。 模擬戦とはいえ闘いは闘いだから、試合に勝利すれば、戦利品として相手の武具が手に入る。 名誉ばかりでなく実益も転がりこんでくる仕組みだった。
  出場がすでに決まっている地元の騎士たちは、間近に迫った森の、外れの木々に、ずらっと盾を並べていた。 戦いの相手を決めるために自然に成立したルールで、挑戦者はその盾に槍を当てる。 普通は石突きと呼ばれる槍の根元で軽く触れた。 これは、本物ではなく先を丸めた練習用の槍、剣でいえば木刀で戦うという印で、ほとんどの騎士はこの方法を採った。
 
  その秋の日は朝から上天気で、しかも珍しくずっと太陽が天に居座りつづけ、にわか雨が降ることはなく、雲の姿も消え失せていた。
  競技場は大盛況だった。 柵のそばは農夫や近隣の子供たちで早くも鈴なりになり、競技が一番よく見える特設の桟敷席は、強い者勝ちの争奪戦が繰り広げられていた。
  シメオンはぎゅっとミリアムの手を握り、確保した席にしがみついていた。 争いごとを好まない一人娘がめずらしく、この槍試合だけはどうしても見たいというので、朝早くから来て席を取っていたのだが、こうもみくちゃにされるとは……
  主賓のジョン王子が一段と高い席に現れ、人々の一応の歓迎を受けた。 だが、その後王子の斜め横に席を取ろうとして歩み出た少女を見た人々は、王子の二倍以上の熱意で拍手と歓声を送った。
  たしかに、それだけの価値のある娘だった。 金色の巻き毛が彫像のような白い顔を取り巻き、湖に似た碧の瞳を際立たせている。 唇は品よく小さく、バラの蕾という形容がよく合っていた。
  彼女は、アイルマーだけでなくローダムやウェントワースでも有名な美人だった。 家柄もいい。 7代続く地元の名家の出で、名前はエニッド・ハードウィクという。 純粋なサクソンの貴族なので、姫と敬称で呼ばれていた。
  そのあたりでようやく騒ぎは収まり、観客はそれぞれの場所に落ち着いて、試合が始まるのを胸躍らせて待ち受けた。
  最初に進み出たのは、新品の鎧をつけた若者だった。 金はあるが、どう見ても修業が足りない。 友達に押し出されるようにして出てきたのはいいが、端に置いてあるシャルル・ド・スイフの盾を突こうとして手が震え、隣の獰猛なマルク・ド・ボア・ルージュの盾を押してしまった。
  マルクの盾が、カランという音を立てて倒れ、若者は震えあがった。 観客もざわめいた。 マルクは一応ノルマンの貴族だが、家柄、財産ともに乏しく、ほとんど野武士に近い男だった。 したがってマナーなど無きにひとしい。 槍試合荒らしとして悪名ばかりが高かった。
  周りが恐れたとおり、試合はあっという間に終わった。 若者は恐怖心に駆られ、重い甲冑に足を取られて、従者に手伝わせているのに馬に2度も乗りそこなったあげく、走り出したとたんにマルクの槍に一撃されて、地面に背中から墜落した。
  命を落とさなかっただけ、もうけ物だった。
  気絶している若者から、マルクの従者たちが容赦なく鎧を剥ぎ取るのを、観客は白けた気分で見守った。
  次は、茶色の鎧をまとった大柄な男だった。 力はあるが、ただやみくもに槍を振りかざすだけで、リズムがなかった。 挑戦を受ける側は十字軍に参加した歴戦のつわものだけに、2度打ち合っただけで軽く負かしてしまった。
  観衆は少しだれてきた。 実力差がありすぎる試合はつまらない。 今日の挑戦者は水準が低いな、と囁きあう声があちこちに響いた。
  3番目に出てきた男が一段と見栄えが悪かったため、失望感は笑いに代わり、大声がとんだ。
「シャルルに挑戦しろ!」
「そうだ、シャルルならもしかしたら勝てるかもしれないぞ!」
  名指しされたシャルル・ド・スイフは怒って、椅子から立ち上がって見物人たちをにらみ回した。 たしかに『脂肪のシャルル』と仇名されるだけあって丈より幅のほうがあるぐらいの体型だが、これでもリチャード王につき従ってパレスティナまで遠征したのだ。 闘った経験の無い平民ごときに馬鹿にされるいわれはなかった。
  第三の挑戦者はゆっくり馬の向きを変えて、試合場に入ってきた。 つやのない鎧、いくらかゆがんだ古い兜、にぶい光の槍先、どれを見ても、古道具屋で一番安いガラクタを買ってきたとしか思えない。 ミリアムはヴェールの下で唇をとがらせ、思わず呟いた。
「けち! ここいらで一番の鎧が買えたはずなのに」
  シメオンは挑戦者の別の部分を見ていた。 腕の上に結びつけられてはためいているスカーフだ。 娘に顔を向けると、シメオンは咳き込むように尋ねた。
「ミリアム、おまえ……」
  言葉が途切れた。 哄笑の渦の中を、挑戦者は急がずに進み、何のためらいもなく最上段に誇らしげに置いてあった鷹と百合模様の盾を突いたのだ。
  人々は驚いて静まり返った。 それはリュック・ドラペーズの盾。 この辺りでは知らぬ者のない猛者だった。
  身のほど知らず、殺されるぞ、という呟きが、ミリアムの耳に飛び込んできた。 少女の体が強ばった。
(挑戦する相手をまちがえたんだわ。 レジナールはもっとずっと下なのに)
  リュックは鼻で笑い、ゆっくりと立ち上がった。 鎧がむやみに重いから、騎士たちはみな座って待っている。 うっかりすると足がしびれて立てなくなる場合さえあった。
  ふたりの騎士は、長い木柵の端と端に位置を取った。 そこから勢いをつけて馬を走らせ、中央付近で槍を繰り出して相手を突くのだ。
  走り出したとき、リュックはまだ余裕しゃくしゃくだった。 しかし、突きに入る寸前に顔色が変わった。 やせて覇気がなかった相手の体に、突然力がみなぎったのだ。 それはまるで、しおれた花が水を吸い込んでみるみる立ち直るさまに似ていた。
  次の瞬間、リュックの目の前に星が散った。 天地が逆様になり、ズシンという大きな音と共に、剥き出しの地面に転げ落ちていた。
  眼がかすんで、しばらくは起きあがれなかった。 ようやく上半身を土ぼこりの中で持ち上げると、頭が割れそうに痛んだ。
  ついで、ひどい屈辱感が襲ってきた。 馬から落とされるなんて、少年の時しか経験がない。 いつも落としてきた。 だから近在の首領格でいられたのに。
  相手はまだ馬上にいた。 興奮する馬をなだめながら、リュックを見下ろしている。 面頬を上げないので人相がわからないが、隙間からかいま見えるグレイの眼が、ただごとでなく鋭かった。
  従者に助けてもらってようやく立ち上がると、リュックはやけになってわめいた。
「よかろう! 誰だか知らないが、貴公の勝ちだ。 鎧を持っていけ!」
  かすれた耳障りな声が応じた。
「後で受け取りに伺う。 そのときまでに脱いでおかれたい」
  皮肉な言葉に、リュックは満面朱をそそいだ。
  固唾を呑んで見守っていた観衆が、一斉に息を吐いた。 感嘆のざわめきが潮のように広がっていく。 その中で、ミリアム一人が気をもんでいた。
(相手を間違えたから、まだ戦わなくちゃならない。 疲れているのに)
  そんな生やさしい状況ではないことを、ミリアムはまだ知らなかった。
  規則では、挑戦者がもし勝つと、暫定チャンピオンということになって、今度は挑戦を受ける側になる。 名無しの騎士は、挑戦者がいる限り、戦いつづけなければならなくなったのだ。
  先ほどリュックの隣に座っていた、立派な体躯の青年が立ち上がり、馬に乗った。 日焼けした顔に青い眼がよく映えている。 藁色の髪にずっしりした兜を載せて、青年は大きく呼ばわった。
「我はラファエル・ドラペーズ。 貴公が今倒したリュックの弟だ。 いざ!」
  作法とおりに名乗りを上げると、ラファエルは騎士が位置につこうとする一瞬の隙をついて、いち早く駆け出した。
  この汚いやり方に、観客から不満の声があがった。 しかしジョン王子は平然と椅子にもたれて見守っていた。 リュックとラファエルの兄弟は王子のお気に入りなのだ。 だから普段は特別扱いで、ほとんど挑戦者はいない。 それをこの事情を知らない『名無し』が容赦なく負かしてしまったので、王子は内心おもしろくなかった。
  ラファエルの槍が斜め横から入ったとき、見つめていた人々の誰もが、『名無し』の大怪我を確信した。 ところが信じられないことに、匿名の騎士はまるで鎧が柔らかい皮の胴着であるかのようにしなやかに身をかがめてやり過ごし、返す手で思い切りラファエルを突き切った。
  地面に頭から墜落して動かなくなったラファエルを見て、観衆は思わず立ち上がった。 座ったままのミリアムからは試合場がまったく見えなくなった。 途中から両手で眼をふさいでいたので、見えなくても同じだったのだが。
  固く眼を閉じ、その上を手のひらで覆ったまま、ミリアムは祈った。
( ごめんなさい、本当にごめんなさい! 1つ勝ったら、負けるか相手を全部倒すまで闘わなければならないなんて知らなかった。 ああどうか、彼を勝たせて。 私にあの人を殺させないで!)
  静けさの中から、やがてぽつぽつと拍手が起き、すぐに大波となって観客席を覆った。 重傷を負ったラファエルが4人がかりで担ぎ出されていったが、誰も振り向かなかった。
  人々はすっかり興奮していた。 上着を脱いで打ち振っている者がいる。 ジョン王子は苦りきって、並んでいる騎士たちをじろりと眺め渡した。
  彼らはみな逃げ腰になっていた。 屈強な男たちばかりなのに、鎧がだぶだぶに見える痩せ男に圧倒されている。 一方、『名無し』のほうは、槍を片手にゆっくりと小回りに馬を走らせていた。 疲れたそぶりはどこにもなかった。
  挑戦する順番から言えば、マルク・ド・ボア・ルージュのはずだった。 だが彼は、不機嫌な顔で隣のレジナールに顎をしゃくった。
「俺はさっき戦ったばかりだ。 今度はおまえの出番だろう」
  レジナールは青ざめた。 鍛えたしっかりした体格だが背が高いとはいえない。 戦いは身長があって手が長いほうが有利だ。 その点に関しては、『名無し』は申し分なかった。  その上、見かけによらず大変な技量を持っているとなると…… レジナールは具足の中で脚がいくじなく震え出すのを感じた。
  だが、他に候補がいないなら、出ないわけにはいかなかった。 レジナールはやる前から惨めな気分になって、そっと胸に十字を切り、覚悟を決めて馬に乗った。
  もう誰の目から見ても、勝負は決まっていた。 最初の打ち合いでレジナールはあっさり馬から突き落とされた。
  しかし、その後思いもかけない事態になった。 レジナールの足首が片方あぶみにからまり、ぶらさかったまま興奮した馬に引きずられていった。 従者があわてて後を追ったが、馬に追いつけるわけはなく、レジナールは気絶した状態でなすすべなく地面にはねあげられていた。
  そのとき、『名無し』が動いた。 馬を駆ってレジナールの愛馬サンスーシを追い、あっという間になだめて立ち止まらせた。 すぐに従者たちが駆けつけてレジナールをあぶみから解き放った。
  観客はざわついていた。 いくらかは感心する者もいたが、大部分は、余計なことをする、という態度だった。 みんな金を払って来ているので、早く次の対戦が見たいのだ。 敗者に情けをかけることはない。 それが少々残酷な見物客の心情だった。
  だが、気がつくとマルクはどさくさにまぎれてこっそり引き上げてしまっていた。 もう挑戦者はどこにもいない。 しかし、ジョン王子は意地を張ってしばらく閉会を宣言しなかった。
  半時間ほどして、客席が不快な雑音に包まれ始めてようやく、ジョン王子は手を上げ、試合の終りを宣告した。 そこで人々は大きく歓声を上げ、勝利者を呼んだ。
  いやいや、という感じで、『名無し』は観客席に近づいて、馬上で一礼した。 それだけだった。 名誉の印の花冠も賞品も受け取らず、彼はさっさと退場して、観客の溜め息を誘った。
 
  少し離れたところにしつらえた粗末なテントに入ると、『名無し』、つまりあの巡礼は、テントの真ん中で鼻歌を歌いながら革紐で胴着をつくろっていた髭むじゃらの男に手伝わせて、すばやく鎧を脱いだ。
「アンガス、彼に会えたか?」
「もちろん。 わしを何だと思ってらっしゃる」
「よし」
  静かにうなずくと、『名無し』は粗末な黒服を頭から被り、元の巡礼に姿を変えた。 
  あやういところだった。 彼が頭巾を深く引きおろした直後にテントが前触れなく引き開けられ、ちぢれっ毛の少年が顔を突き入れた。
「あの、さっきみんなをやっつけちゃったナイトのテントですか?」
  巡礼は答えなかったが、代わりにアンガスが気軽に答えた。
「そうだよ、ぼうず」
  ひとにらみされて、アンガスは黙った。 少年はきょろきょろ狭いテントの中を見回し、不思議そうに尋ねた。
「あのおじさんは?」
  アンガスは吹き出し、笑いすぎて咳き込んだ。
「おじさんだって?」
「ええ、あのひょろ長い。 あの人はどこですか?」
「目の前にいるよ」
  またも余計なことを言った罰で、アンガスは脚を杖で殴られかけ、さっとかわした。
  少年は口をあけて、みすぼらしい巡礼を眺め、思わす言った。
「鎧も古かったけど、その格好もボロいですね」
「そうか」
  怒るでもなくそう言うと、巡礼はテントをめくって歩き出した。
  その後ろをちょこちょこと小走りでついていきながら、少年は言った。
「あのね、ある人が会いたいって」
「ある人?」
  巡礼は急ぎ足になった。 少年は遂に駆け出した。
「急がないでください! ある女の人が、あいたいって!」
  巡礼の足が止まった。

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