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表紙

あなたが欲しい  1


 その夜の月は、糸のように細かった。
 ちびた蝋燭を一本だけ立てた燭台を手に、すりへった階段を長々と上ってきたエイドリアンは、鍵を開けてドアを入るとすぐ天窓から空を見上げて、ふっと溜め息をもらした。
「もうじき新月か」
 困った事態だった。 月光がなければ屋根裏部屋は漆黒の闇。 軽く身支度をするにも、高価な蝋燭をつけておかねばならない。 そして、日の長い夏は過ぎ去ろうとしていた。

 机に燭台を置いて帽子を脱ぎ、上着を壁のフックにかけていると、軽やかな足音が駆け上がってきて、鍵穴に鍵を差し込もうとするガチャガチャという音が響いた。
「あれ、あいてる」
 陽気な声と共に飛び込んできたのは、いかにも元気そうな無帽の若者だった。
「今夜は早いな、エイドリー」
「ジョンストンさんが風邪ぎみで、早めに事務所を閉めたんだ」
 淡々と答えて、エイドリアンは窮屈なボウタイを外し、高く持ち上がったカラーを緩めて、狭い寝台に腰を下ろした。
 すぐに若者も並んで座った。 そして、声を低めて質問した。
「なあ、いくら残ってる? 明日は家賃の支払日だろ。 もう三ヶ月も溜めてるからさ、そろそろ少しでも払っておかないと追い出されるかもな」
 エイドリアンは目を細め、天窓を覆う夜の星空を見上げた。 それから無言のままポケットを探り、くしゃくしゃの札を二枚と硬貨を六枚取り出した。 若者も同じように、胸と尻のポケットから小銭を探し出して、傍の窓枠に並べた。
「二ポンド八シリング三ペンス……。 これじゃ今月分の半分にもならないよ」
「ジョンストンさんに給料の前借を頼むか」
「無理じゃないの? 今年になって四回目だろう?」
 二人の青年は、思わず顔を見合わせた。
 沈黙の後、エイドリアンが初めて自分から尋ねた。
「じゃ、どうする、クイント?」
 クイントと呼ばれた若者は、何もない部屋の隅に焦点を当てて、少しの間思案した。
 それから、思い切って口に出した。
「いい考えがあるんだ。 一週間ぐらいずっと温めていたアイデアなんだけどさ」
 嫌な予感がして、エイドリアンは顔をしかめた。
「おまえのアイデアは、たいてい……」
 みなまで言わせず、クイントは急いで言葉を継いだ。
「今度はばっちり。 いいかい? 大金持ちのお嬢さんの婿になるんだ!」




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