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表紙
夜に花束を 1

「お疲れさまでした!」
 明るい声を残して、山城波〔やましろ なみ〕はアルバイト先の花屋《はなことば》を出た。 今日戸締まりしてくれるのはベテラン社員の春日弓彦〔かすが ゆみひこ〕だ。 居残り当番だったここ数日間とちがって気を遣わなくていいので、波はうきうきしていた。
 両手に抱えている残り物の花束でさえ、いつもより生気にあふれてよい香りをまき散らしてくれるような気がした。
 ハミングしながら歩道を速足で歩いていると、ふっと冷たいものが鼻先をかすめて落ちていった。 急に真っ暗になった上空を見上げて、波は顔をしかめた。
――なんだ、せっかく気分よく帰るところだったのに、雨が降り出しちゃった――
 強い降りではなかったが、絹糸を引くような絶え間ない雨粒で、じきにコートの肩が黒くなりはじめた。 バスに乗ろうか、思い切ってタクシーを呼ぼうか、と迷い始めたとき、角のところで危うく人影にぶつかりかけた。
 つまずいて、波はなんとか体勢を立て直した。 天性の運動神経が物を言った。
「すいません」
 声をかけたが、相手は動かない。 街灯に寄りかかるようにして、じっと車道を見つめていた。
 酔っ払いにしては異様だ。 車に飛び込むつもりなんじゃないだろうか、と波は心配になった。
 それて、すぐに行動に移った。 ジャケット姿の男の腕をつかんで、思い切り引っ張った。
 体が大きいわけではないが、体育が得意なので、腕力には自信がある。 予想通り、背が高くてもほっそりした男の体は、力任せに引く波に負けて、ぐらっと歩道に傾いた。
 バーの看板に押しつけられた形になった男を、波はのぞきこんだ。 そして、いくらかたじろいだ。 思わず目を見張るほどきれいな顔が視界に飛び込んできたのだ。 色が白く清潔で、優雅な美貌を持った若い男…… 彼はうつろな眼差しで波を見返した。 しかしその瞳には、どう見ても彼女は映っていないようだった。
「あの……」
 大丈夫ですか、と話しかけようとして、波は気づいた。 この青年も波と同じように、手に花束を持っている。 ただしコサージュに近い小ぶりなもので、しかもすでにしおれて四方に垂れ下がっていた。
 男の手が動いた。 ゆっくり持ち上がり、そのしおれた花束を波に差し出した。
 うっかり手に取ってしまって、波はあわてた。
「あの、これ……」
「君のだ。 受け取って」
 波は途方に暮れた。 酔っているのだろうか。 アルコールの匂いはしないが……
 とっさに波は、自分の持っていた花束を青年の腕の中に置いた。
「それじゃ、これ持っていってください。 残り物だけど、1時間前まではちゃんとした商品だった花だから、充分3日はもちますよ」
 青年はまばたきせずに波を見つめていた。 真っ青だった頬に、いくらか血の気が戻ってきた。
「ありがとう」
「気分が悪いなら、タクシー呼びましょうか?」
 またふらふらと車道に出ていかれたら寝覚めが悪い。 波は思い切って提案した。
 青年は小さく首を振った。
「大丈夫……だと思う。 君こそ雨に濡れるよ」
 そう言うと、彼は手を上げてタクシーを呼んだ。 そして、慌てる波をやさしく押し込むと、運転手に札をわたして頼んだ。
「この人を、家まで送ってあげて」
「ちょっ……待って……!」
ください、と最後まで言い終われなかった。 タクシーはさっさと発車した。

 大学時代のロマンティックな経験といったら、これ1つぐらいのものだった。 だから波は、卒業した後でもしばらく、この奇妙な晩のことをよく思い出した。
 3月のまだ肌寒い、小ぬか雨の降る夜。 上等の猫目石のような沈んだ茶色の眼をした青年。 そして、しおれ切った花束…… 夢に半分入りこんだようなあのひとときを。

 大学を出て波が入ったのは、スポーツ用品の製造会社だった。 開発関係の仕事をしたかったのだが、回されたのは販売促進部。 ちょっとがっかりしたものの、理科系にしては人当たりがいいところが認められたんだと良いほうに解釈して、コンピューターで売り上げ統計を取ったり、パンフレットのレイアウトをしたり、与えられた仕事をきちんとこなしていった。
 いくらか会社に慣れてきた6月半ば、大学時代の親友が結婚するに当たって、波は準備に付き合うことになった。 それまで全然知らなかったのだが、その友達、小倉千早〔おぐら ちはや〕は医者の娘で、相当な財産家の生まれだった。 しかも、結婚相手も医者。 というわけで、式は相当派手になる模様で、その日千早はレストランにケータリング〔=料理の仕出し〕を頼みに行く予定だった。
「すっごいね。 氷の彫刻とかシャンバン・タワーとかやるの?」
「さあ、そこまではちょっと……」
「7月に挙式するなら涼しそうでいいじゃない?」
「けしかけないでよ」
「ちょっとは、やりたい気分なんだ」
「まあね、とか言って」
 口でははしゃいでいるが、千早の表情はどこか冷めていた。 心から望んでいる式なのだろうか、と少し波は気がかりだった。
 やがて千早が足を止めたのは、白いエントランスが清々しいイタリアン・レストランだった。 表に大きなイーゼルの形をした看板が出ていて、上にヨーロッパ中世を思わせるランプがかかっている。 窓辺のフラワーボックスには青、白、ピンクのサフィニアが咲き乱れ、御影石のテラスにしっくりとマッチしていた。
「フィオーリ…… ここだわ」
「いい感じね」
 ガラスの扉をそっと押しあけると、中から気持ちのいい声がした。
「いらっしゃいませ」
 何気なくそちらを向いた波は、思わず足を止めた。 見覚えのある顔が、軽い愛想笑いを浮かべて見返していた。

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