表紙

  公園にて 7


「社交辞令すか?」
 井上さんは、ふっと笑い声を漏らした。
「俺が社交辞令言ったことあったっけ?」
「ないです、よね」
 言葉を区切って答えると、突然シロは少し低くなった池の縁から、軽い足取りで2人の傍まで駈けあがってきた。
「本気にしますよ」
「だから本気」
「お願いできますか?」
 目が光っていた。 チャンスを掴もうと必死な若者は芸能界にひしめいているが、ただの売り込みだけではない思いつめた気迫を、マオはこの青年から感じ取った。
 井上さんはうなずいた。 スタッフの一人がシロの後ろで顔をしかめて手を振ってみせていた。 しかし、そのジェスチャーの意味がわかっても井上さんは気に止めない風情だった。 その証拠にポケットから名刺入れを出すと、中から一枚抜き取って、さっきまでサインしていたペンで走り書きし、シロの手に載せた。
「俺の番号。 誰にも教えないでくれよ」
「はい」
 シロの声が弾んだ。 明るさを増したその表情をながめながら、井上さんは付け加えた。
「明日あいてる時間があったらメールで入れといてくれ。 じっくり条件詰めよう」
「はいっ」
「甲田さん、そろそろ!」
 下から声をかけられて、シロは振り返った。
「じゃ、オレ行きます」
「背中平気? あれって相当痛いだろう。 俺も昔トラック転がしてた頃積荷を崩して、肩直撃で鎖骨を折ったんだ」
 思わずシロの手が自分の背中に回った。
「ちょっと痛むけど、肩甲骨は大丈夫そうです」
「気をつけて。 じゃな」
 直立不動の姿勢を取って、シロは頭を深々と下げた。
「ありがとうございます!」

 そのとき、男2人の間に何かが通ったのを、マオははっきりと感じた。 シロはあまり評判の良くないタレントらしい。 だが井上さんは彼の中に将来性を見てとったのだ。 井上さんには独特の基準があって、売れる素質を見抜くのがうまかった。 企業秘密だと言って、マオにさえ教えてくれなかったが。

 息を大きく吸い込んだ後、井上さんは表情を優しく崩してマオに向き直った。
「ごめん。 仕事してしまった」
「いいよ」
「あのエネルギーと集中、使わない手はないと思ったんだ」
「集中?」
「そう。 ちょっと見てごらん。 森住まきの方だよ」
 うながされて、マオは撮影現場を見下ろした。 子役の一樹が本気でおびえて尻込みしているのを、森住まきのマネージャーらしい母親がなだめすかしている。 その横に、森住まき本人が立っていた。
 まきは子役たちを見ているようで、見ていなかった。 その視線は母子を越えて、更に遠くへ向けられていた。
 何を眺めてるんだろう。 マオは自然に視線を辿った。 すると、カメラの後ろの目立たない位置で木に肩を寄せているシロが視界に入ってきた。
 ふたりは見つめ合っていた。 何人ものスタッフと、何十人もの見物人と、たくさんの機材に囲まれて、それでもふたりはまるで霧の中を貫く一筋の光線のように、お互いをぼうっと見とれ合っていた。
 マオの腕が井上さんの胴に回り、頬がシャツの腕にすり寄せられた。 マオにもわかったのだ。 下のニ人が、一生に何度も味わえない奇跡の時間を過ごしていることを。 甲田史郎と森住まきは相手だけを見ていた。 周りなどまったく目に入らず、ただひたすらお互いだけを。

 背中で腕を交差させ、ぴったりとくっついて、マオと井上さんは歩き出した。 暑さなんて感じなかった。 できるだけ近くにいたい、一緒にいられるこの幸福感を手放したくない、と、同じ1つのことを心に念じていた。
 木立の外れまで来て、公園の出口が見えると、ようやく井上さんが口を開いた。
「森住さんはエムラ興業のトップスターで秘蔵っ子なんだ。 芸能界ではシロよりずっと格上だ。 だからあの二人、交際を認めてもらえないんだろう。
 シロには演技の才能がある。 ちょっと見ただけでわかるほどだ。 だが自分を売り込むのは極端に下手だな。 だからあんなプレイボーイのちょい役しか来ない。
 彼の才能は、場を与えれば光る。 今みたいに目的があればなおさらだ。 きっとあの子は伸びるよ」
「彼はいくつ?」
「確かマオと同い年」
「がんばるよね、きっと」
「俺は期待してる。 目に力がある」
 ちょっと思い返して、マオは言った。
「森住まきさんの眼ね」
「うん?」
「あなた最高! って彼に言ってるみたいだった」
 胴に回した腕に力を込めて、井上さんは囁き返した。
「マオも目でそう言ってくれるか?」
「いつも言ってる。 いっつもそう思ってる!」
「俺も。 大きな声で言っちゃおうかな。 俺の奥さん最高!」
「わっ、やめれ!」
 あわてて口を塞ごうとして飛びついたマオに、井上さんはあろうことか、待ってましたとばかりキスしてしまった。
 もう口で言っても止めない状態なので、マオは思い切り彼の手を引っ張って歩き出した。
「行こ行こー! おなかの皮と背中の皮がぴったんこ」
「色欲より食欲か」
「もうやめれって!」
「食ってかららぶらぶなところへ行こうか」
「バカッ」
「ははは」
「食べたらあの小さな観覧車に乗ろう」
「はいはい」
「コーヒーカップにも」
「順番逆にしたら結構らぶらぶできるかも」
「まだ言う!」
 見かけだけぷんぷんしながら、マオは前かがみになって、大きな井上さんを引っ張っていった。



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