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107 戻るべき場所


 ベッドの脇に椅子を引き寄せて座ると、ロビンは蝋のような顔色の妻に、心をこめて話しかけた。
「覚えてる? ニューヨークの小さな部屋で、電気代がもったいないから夜はランプを灯して、君がつくろい物しながら僕に、本を読んでくれと言ったね。
  図書館から借りてきて、毎晩のように読んだよね。 『宝島』とか『トム・ソーヤー』とか。 そうそう、『誘拐されて』を読んでたとき、怖がって指に針をさしちゃったことがあったね」
  額に垂れかかった巻き毛をそっと撫でつけてやりながら、ロビンは懸命に語りかけた。
「楽しかったね。 金はなかったけど、サンドイッチ持って野原に行くだけで幸せになれた。 君と僕だけしか知らない思い出が、山のようにあるよね。
  これからも一緒に生きていこうよ。 思い出を積み重ねてエベレストより高くしよう。 年を取って思うように動けなくなったとき、ふたりで話して夢の中で昔に戻ろう。 それができるのは、僕にとって君だけなんだから」
  日の光は次第に赤味を増していき、真紅になって地平線をただよっていた。 間もなく日暮れだ。 上空はすでに紺色に変わり、淡い星影が見えはじめていた。
  ラーセン夫人が立ち上がってカーテンを閉めた。 そして、遠慮がちにロビンに言った。
「もうじき回診の時間です。 シングルトン先生が来てご主人を見つけたら、私が怒られますから」
  ロビンは仕方なくうなずき、握っていたジェーンの力ない手をそっと離した。 だが、どうしてもあきらめきれなくて、もう一度覗きこんで、閉じた瞼にキスした。
「起きて、ジェーン。 きれいなすみれ色の眼を、もう一度僕に見せてくれ」
  ジェーンはぴくりとも動かなかった。 ロビンは一瞬顔中をくしゃくしゃに縮め、身を起こしてドアに歩きかけた。
  そのとき、弱々しい声が聞こえた。
「また、読んでくれる……?」
  ドアノブにかけたロビンの手に、みるみるうちに血管が浮き出た。 口から燃える息が吐きだされた。 彼はあやうく突んのめりそうになりながら向きを変え、ベッドに突進していった。


 それからも怪我の後遺症は長引いた。 だが1ヶ月してようやく立つ練習を始めたとき、ジェーンの周りには明るいニュースが次々に集まった。
  まず第一は、ルイーズの出産だった。 お産が長引いたのでアレックスは徹夜してしまったが、それだけの甲斐はあった。 生まれたのは女の双子だったのだ。 幸せ一杯のルイーズの手紙によると、
『アレックスは両腕に一遍に赤ちゃんを抱かされて、眼を白黒させていましたが、名前をつけるときには胸を張って威張っていました。 何しろ男女合わせて10種類も名前を選んでいたので、選ぶのに全然困らなかったのです』
だそうだった。

  そして、サンディ・アニー夫妻が無事、お土産をトラック一杯分ほど抱えて、新婚旅行から帰ってきた。 2人を心配させまいとして、ロビンがジェーンの事件を知らせなかったので、帰った後で聞かされたアニーは、荷物の整理を放り出して駈けつけてきた。
  夏の光がまぶしい庭で、木陰に車椅子で運んでもらっていたジェーンは、パリの最新流行の服が破れるほどの勢いで走ってくるアニーを見つけ、大喜びで手を振った。
「デュヴァル先生……しゃなかった、アニーさん!」
「ジェーン!」
  車椅子に飛びつくと、額の汗をぬぐいながら、アニーは勢いよく尋ねた。
「傷はもう痛まない? 引きつれは? 筋肉の硬直はないわね?」
「ええ、リハビリがうまくいって」
「よかった!」
  ふうっと息をつくと、アニーは恨めしげにつぶやいた。
「セアラのやつ、最後に会ったとき、一発殴ってやるんだった」
「殺人未遂で5年の実刑ですって」
「5年! 短すぎるわ!」
  アニーは意気込んだ。 ジェーンは思わしげに首を振った。
「あの人には長いでしょう。 急にやせたと思ったら、末期の癌なんですって。 おそらく5年どころか半年もたないだろうと言われていて」
「だから、やけになってこんなことを」
「たぶん」
「あなたを道連れにしようだなんて、どこまでもひねくれてる」
「一人で死ぬのが怖かったのかも」
  2人の眼が見交わされた。 ちょっと間を置いて、アニーはうなずいた。
「そう思ってあげましょう。 さもないとやりきれない。
  さあ、セアラのことは忘れて、これ、あなたに」
「まあ」
  平たい箱を渡されて、ジェーンはびっくりした。
「あけていいですか?」
「もちろん。 それに敬語はやめましょうよ。 私たち、友達でしょう?」
  ジェーンの頬がうれしさに上気した。
「ええ……ありがとう」
  箱の中身を見て、喜びは倍増した。
「すごい」
  それは、ロニーを間にはさんだロビンとジェーンの、見事な肖像画だった。
「向こうで今有名なアルフォンスという画家に写真を見せて描いてもらったの。 いかが?」
「何てすてき!」
  思わず胸に抱きしめて眼を閉じて、ジェーンは思った。 生きていてよかった、苦しさに負けてあの世に旅立っていたら、この絵はロビンの哀しみの元になってしまっただろうと。
  腕を大きく広げて深呼吸しながら、アニーはしみじみと言った。
「ヨーロッパですばらしい所をたくさん見たけど、やっぱり私にはここが一番! いいなあ、故郷は!」

  しばらくジェーンの運動に付き合った後、また近いうちに来ると約束して、アニーはゆっくりと、広い庭を道まで歩いた。
  そう、ここは私のふるさと。 この土地に根を下ろして、子供を育て、家族を作り、長く続く一族の礎になる。
  アニーは夢見るように眼を見開いて、うっとりと空をながめた。
「本当に、愛する人たちのいる故郷って、最高!」
「アニー!」
  道の向こうから声が響いてきた。 サンディだ。 待ちきれなくて、迎えに来たらしい。
  アニーは顔中を笑いに変えて、思い切り両手を振った。
「サンディ! ヤッホー!」
  そして、きれいな脚をひらめかせて走り、夫の広い胸の中に飛び込んでいった。

〔終〕





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