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黒い炎01

 星も月もない夜だった。 雲は海面に着くぐらい垂れ下がり、風の唸りが耳元で吹きすさんで、海岸へ忍び寄る人々の体を斜めにかしがせた。
 飛ばされそうになりながら、少女は懸命に口を結んで歩いた。 大人の足に遅れてはいけない。 必死についていかなければ置いていかれてしまうことを、幼いながらも少女はよくわかっていた。
 浜の端、大きく岩が張り出した陰に、船が揺れていた。 漁師の使う五人乗りの船で、息が詰まるほど魚臭かったが、漕ぎ手と乗客合わせて八人は文句ひとつ言わず、大急ぎで乗り込んだ。
 すべて無言だった。 お互いに手まねで合図しあって、船はすぐ真っ暗な浜辺を出港した。
 後は手漕ぎのギイッという音だけが響き、船は揺れながら荒波をかき分けて進んだ。 本来ならこんな夜中に船を出すことはあり得ない。 まして灯火もつけず海に乗り出すのは大変危険なことだった。
 しかし、八人の乗客はこの船に最後の望みをかけていた。 フランスにとどまって発見されれば、容赦なく投獄され、ギロチンで首を落とされるのだ。
 時は1790年。 フランス革命の真っ只中だった。

 船は低気圧に見舞われたドーバー海峡をよろよろと動いていった。 ともすれば西に流されかける船体を、ベテランの船乗り兄弟二人は全力で立て直し、ジグザグしながらもなんとか目的の対岸へと導いていった。
 やがて遠くにぽつんと赤いものが見えた。 乗客の一人、少女の兄にあたるジャン・ジャックが、思わず船べりに乗り出して目をこらした。
 横に座った上品な婦人、ジャン・ジャックと少女の母親であるデマレ夫人が慌てて息子の上着を掴んだ。
「落ちるわよ。 気をつけて!」
「火だ」
 もうフランス側に物音は届かない距離だが、それでもジャン・ジャックは声を落として叫んだ。
「灯台の火ですよ、お母様! 僕たち、助かったんだ!」
 溜め息ともむせびとも聞こえるかすかな音が船上に響いた。 パリの郊外を隠れ回った悪夢の日々が、これでようやく終わりを告げるのだ。
 つい一年前までは口もきかなかった下層の者達に頭を下げ、金を渡して匿ってもらう日々だった。 払うものがなくなればすぐ追い出される。 それどころか密告されて逮捕される危険さえあった。 事実そうなって、貴族仲間は次々とこの世から消えていった。
 すべての財産を失う前に、デマレ家とサンリヴィエール家の六人は、耳寄りな話を聞き込んだ。 海辺の村までたどりつければ、そこからイギリスに脱出できるルートがあるという。 藁をつかむ気持ちで、ふたつの家族は金を出し合い、密輸業者に話を持ちかけて、わざと荒れた天気の夜を選んで海に出た。
 だから対岸の灯りは天使の輝きに見えた。 一同は胸を高鳴らせ、刻一刻と赤い光が近づいてくるのを見守った。
 しかし、あと少しで岸に着くというとき、いきなりゴリッと音がして船が傾いた。 弟の船頭はぴっくりして全力でオールを引き戻しながらわめいた。
「こんなはずはねえ! あそこが灯台なら、ここに岩が突き出てるわけがねえぞ!」
 だがその間にも尖った岩の先端は船底を裂き、グブッという不気味な音と共に海水が噴き上がってきた。
 乗客から悲鳴が上がった。 三人いた男たちはてんでに上着を脱ぎ、なんとかして裂け目を塞ごうとした。
 その間にも烈風は船を押し、陸地に近づけていた。 もう少し、もう一分、船が動いてくれれば――少女は両手を固く合わせ、どこかにいるはずの神に祈った。
 岩は容赦なく船を引き裂いていった。 一分どころか十秒後に、船体は真っ二つに割れ、人々は波頭の立つ水面に投げ出された。
 意識があるうちに少女が聞いたのは、自分とジャン・ジャックの名を呼ぶ母の悲痛な叫びと、兄の船頭の怒鳴りちらす声だった。
「くそっ、あいつら、死んでも許さねえ!」
 あいつらって誰のことだろう。 私たちのことじゃないらしいけど――その疑問だけが、荒波に巻きこまれる寸前に少女の頭をかすめた。


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