表紙
幸福の条件 1


 カンバスと絵の具と熱いコーヒー、それに洋介がいれば、美鈴〔みれい〕は満足だった。 季節ごとの着たきり雀でも、ペンキ塗りのバイトで体の節々が痛くなっても、美鈴はいつも明るかった。 絵が描けて、恋人がそばにいてくれて、親友の七恵〔ななえ〕と週に一度か二度話ができれば。
  懸命にやりくりして大学を卒業した後、美鈴は定職にはつかず、昼夜のアルバイトで生活費をひねり出しながら絵を描きつづけていた。 洋介と七恵はどちらも絵をあきらめて企業に就職したので、果たせなかった自分たちの夢を託して、美鈴を応援してくれていた。
  努力を重ねたかいあって、絵を置いてくれる画廊が見つかり、秋になってその一枚が売れた。
 幸福は次第に高まって、半年続いた。 美鈴の絵は毎月のように売れ、夜のバイトから解放してくれた。 あまけに画廊の主が、ひそかに最高傑作だと美鈴の思っていた作品を選考会に出品するという。 受賞するとまでは考えなかったが、推薦状つきで自作をコンテストに出せるだけで美鈴はうれしかった。
 一人娘に『ミレー』と名づけるほど絵が好きだった母が生きていたら、どんなに喜んでくれただろう。 母が残してくれた古い小さな家に絵をところせましと並べながら、美鈴は思う。 描きたいものはこの世にいっぱいだ。 一生かけて、描いて描いて描きまくってやる、と。

 しかし、出展の通知を受けた日が、美鈴の運の行き止まりだった。 その日を境に、文字通り坂道を転がり落ちるように、すべてが暗転しはじめた。
  まず、新人賞に応募したはずの『飛翔の夏』が『EXCEPCION』と題を変えられて東報新聞賞をを取った。 ある中堅画家の名前で。
  たまたま新聞で受賞作品を見た七恵からの連絡で、盗作されたことを知った美鈴は、大急ぎで画廊に駈けつけた。 しかし、返ってきた答えは予想もしなかったものだった。
  新人賞の審査員に名を連ねていたその画家は、誰よりも早く美鈴の絵を見て価値を認め、まだ他の審査員の目に触れる前だったのをいいことに、矢も盾もたまらなくなって横取りをたくらんだのだ。 画廊の主人は抗議したが、逆に脅されて引き下がった。 その絵が美鈴のものだという証拠がどこにある、と押し切られてしまったのだ。
「残念だがもう同じタッチの絵は描けない。 君のほうが模倣だと訴えられてしまう」
  血の気の失せた顔で、画廊の主人はつぶやいた。 あまりの不公正さに、美鈴は声も出なかった。


 しょんぼりと帰ってきた美鈴を更に打ちのめす事態が、家で待っていた。 ドアをあけるために鍵を差し込んでいると、背後から影が差し、低い声が聞こえた。
「美鈴」
  洋介! 大阪出張で2日間会えなかったので、美鈴は胸を高鳴らせながら振り向いた。
「やっと帰ってきた! あのね……」
  顔をそむけるようにして、洋介は声を絞り出した。
「わるい!」
「え?」
「ほんとにわるい! 俺さ、好きな人できちゃって」


  空耳だと思った。 そんな言葉、聞こえたはずがないと。 だが、それは現実だった。


  つらいと、美鈴はうまく口がきけなくなる。 だから黙ってしまった。 ぼうっと立ち尽くしている美鈴を見て、怒っているのだと思い、洋介は後ずさりして、小声であやまりながら急ぎ足で去っていった。
「もうここにいる権利ないから、明日引っ越すよ。 ごめん、レイ」
 

 ひとりだとセミダブルのベッドでも異様に広く感じられた。 何が起きたか未だに信じられずに、美鈴は薄暗い天井を見つめてじっと横たわっていた。

 翌日は土曜日だった。 一睡もできなかった美鈴は、落ちくぼんだ眼で天井を見るともなく見つめていた。
  いまどき珍しい振り子時計が、隣の部屋で重苦しく鳴った。
  ボーン、ボーン、ボーン……゛
「3時……゛?」
  すでに午後だった。 バイトに行かなければならない。 行かないなら連絡をきちんと取っておかないと、仕事が来なくなる。 美鈴は疲れきった頭を振り、のろのろとベッドに起き上がった。
  2年前に買った、もう古びた感じの携帯電話を手に取ったとき、勝手に指が動いた。 七恵! そう、これまでグチを言ったことはほとんどないが、こんなに苦しいのは初めてだから、打ち明けたっていいだろう。

 助けて、七恵!

  電話は確かに鳴っているのに、七恵はなかなか出なかった。 7回呼び出し音がした時点で、美鈴はあきらめて切ろうとした。
  そのとき、声が聞こえた。 七恵ではない。 聞き慣れた男の声……
「美鈴……」
  美鈴はかたまった。 この声。 罪悪感に押しつぶされたようなその声は、ゆっくりと美鈴の息の根を止めにかかっていた。
  「昨夜はどうしても言えなかった。 七恵も……顔を合わせる勇気がないって。 どうしたらいいんだろうな、俺たち」
  午後の3時。 窓の外は明るかった。 太陽の照り返しで庭の小さな池にはかげろうがゆらめいている。 だが、美鈴にはすべてが、消し炭色のフィルターをかけたように見えた。


  その日一日、洋介は荷物を取りに来なかった。 夜になっても美鈴はベッドに腰かけていた。 一度水を飲み、二度トイレに行っただけ。 後は何もせずに座り込んでいた。
  絵が奪われたのを教えてくれたのは七恵だった。 あんなに心配してくれて、必死で慰めてもくれた。 だがその同じとき、七恵は洋介と旅に出る支度をしていたのだ。 彼が出張していた2日間、七恵もたしか休暇を取っていたはずだった。
  まる半日、おぼつかない頭で考えて、美鈴は自分のうっかりさ加減にあきれていた。 発覚したあとで、いろんなものが見えてくる。 いつ二人が結ばれたか言うことができた。 今年の正月だ。 なんとなく二人がよそよそしくなった気がしたが、そのときはケンカでもしたのだろうと軽く考えていた。
 

 2日後、美鈴が仕事に行っている時間を狙って、洋介は荷物を運び出していた。 がらんとなった寝室を見渡して、美鈴は無言で立ち尽くした。 何もかもなくなっちゃった―――泣くことさえできなかった。 
 
 追い討ちをかけるように、一ヵ月後、春日井洋介と杉原七恵の結婚通知が届いた。 式は七恵の故郷の新潟で内輪にあげたらしい。 結婚しました、という文字にハートが散っているのを眺めながら、センスのない葉書だな、とデザインを気にしてしまうのが、美鈴の悲しいところだった。

 あれから一枚も絵を描いていない。 機械的に昼間はバイトに出ているが、夜はいつも部屋でぼうっとしていた。 テレビはもともと見ないし、目が疲れるので本も読まない。 そのうえ絵が描けないとなると、何もすることがなかった。
  こんなことは生まれて初めてだった。 物心ついたころから、寝ているとき以外はいつも絵が描きたかった。 丸を描いたつもりでも八角形に見える幼児期の落書きから始まって、小学校低学年では休み時間でも手が動いていた。 友達と話しながら、ふざけながら、ノートの端が、教科書の隅が、次々と似顔絵で埋まっていく。 4年生のときに校内清掃のポスターが張り出され、翌年に市の読書感想文につける絵で金賞を取った。
  いつも鉛筆と紙がかたわらにあった。 つらいときは常に絵を描いて乗り切ってきた。 それなのに、美鈴は今、その絵が手につかない。 一日がこんなに長いとは、これまで思ったことがなかった。


  そんな日々が、2ヶ月近く続いた。 それから薄日が射し込んできた。 画廊の主人が電話をかけてきて、『EXCEPCION』の受賞が取り消しになったと知らせてきたのだ。
「ずっと江口さんの絵を買っていたお客さんが動いてくれたらしいんだ。 なにせ君の絵の実物を8枚も持ってるからね。 それを審査委員長に見せて、江口さん独特の絵だと納得させたらしい」
  しびれていた美鈴の脳に、ぼうっと暖かみが広がった。 片親で育ち、そのかけがえのない母を高校生のときに進行性の癌で失って以来、洋介がたった一人の家族であり、七恵が心の支えだった。 しかし、二人と別れた今でも、この広く冷たい世界に、美鈴を見守ってくれている誰かが存在していたのだ。
  その客は、画廊に固く口止めしていて、美鈴が何度尋ねても正体がわからなかった。 男性だということは、受け付けの丸山亜紀から聞き出したが、もしかすると洋介かもしれないと写真を見せたところ、彼女は首を振って否定した。
「こんな感じじゃなかったわ。 もっとずっと……」
  そこで亜紀は口をつぐみ、肩をすくめた。
「まずい、実は私も買収されてるのよ。 しゃべったとわかったら損しちゃう」
  もっとずっと年上なのだろう、と美鈴には見当がついた。 もしかしたら、顔を見たことのない父かも…… 久しぶりに軽い足取りで歩道を歩きながら、美鈴はほうっと息をついた。 体がかすかに震えるのが感じられた。 
 
  きっとそうだ。 他には考えられないもの。

  これまでは、会いたいとは一度も考えなかったが、こうなってみると、急に身近に感じられた。

  いつか……そう、いつか会ってもいいな

  そう考えて、心の隅に緊張と期待が走った。
 
 
  次の金曜日、世間が週末の計画を立てる楽しい日にも、美鈴はペンキだらけになってバイトに精を出していた。 まだ絵を描く気力は足りないが、生きるエネルギーは戻ってきつつあった。 せっせと働いて少しでも金を貯めて、小さなアパートを借りよう。 洋介の思い出が包み込んでいる今の住まいだから、新たな意欲がわかないのだと、美鈴は思い始めていた。
  そうこうするうちに昼休みになったので、美鈴は小さな公園に屋台を出すパン屋に行った。 そこでは280円で分厚いカツサンドが食べられ、もう50円出すと紅茶缶かウーロン茶か缶コーヒーがついてくるのだ。 素早く屋台の前に陣取ると、美鈴はサラリーマンたちが公園に集まり出す前に昼食を手に入れようと、だぶついたサロペットのポケットを探った。
  ところが、その日に限ってまずいことになっていた。 仕事で激しく動いたときに落としたのだろう、百円玉が2つしかないのだ。 あわてた美鈴は、サンドイッチを差し出している顔なじみの兄さんに言い訳しながら、ポケットを裏返して探しまくった。
  耳元でやわらかい声がした。
「これ使って」
  洋介……!  一瞬美鈴の鼓動が止まりかけた。 しかし、おそるおそる上げた視線の先には見知らぬ青年の顔があった。
  眼が合うと、彼は照れくさそうに微笑んだ。
「どうぞ」
  美鈴はあわてて手を振った。
「いいえ、いいえ、いいです」
「こんなに並んでるから、早く買ったほうがいいと思うけど」
  美鈴が振り返ると、疲れた顔をしたスーツ姿の男たちがにらんでいた。 しかたなく、美鈴は青年の好意に甘えることにした。 仕事場に帰ればバッグの中に財布がある。 すぐ返せばいい、と美鈴は思った。
  彼はハムサンドと缶コーヒーを買っていた。 後の客に押し出されるようにして前に出た美鈴は、自然に彼と並んで歩く状態になった。 青年はベンチを見つけ、明るく声をかけた。
「あそこに座ろう!」

  はにかみ屋の美鈴がなんとなく彼についていってしまったのは、たぶん声の印象が強烈だったからだろう。 顔はまったく似ていないのに、青年は洋介によく似たその声のせいで初対面という感じがしなかった。 ベンチに座る距離はつかず離れずで適当だし、話しかけ方にも下心は感じられないので、美鈴はまもなく気を許して話し始めた。 あまり年の離れていない男子に対しては、初めての経験だった。
  ハムサンドを一口食べて、彼は声をあげた。
「あ、これおいしいね。 いつも買ってるの?」
「近くに来たときは」
「並んでるだけある。 また来よう」
  顔を見るのが気恥ずかしくて、美鈴は相手のスーツの膝のあたりを眺めていた。 そして気づいた。 普通のサラリーマンの服じゃない。 生地が上等で、仕立ても見事だ。 オーダーらしいと美鈴は思い、なんで公園なんかで食べてるんだろうといぶかった。
  そこで自分の膝に視線を移して、美鈴は笑い出しそうになった。 だぼだぼのツナギに塗料のしみ付きだ。 こんなに釣りあわない組み合わせってない。 顔にも塗料がついているにちがいなかった。 いつもそうなるからだ。
  カツサンドをほおばりながら、思い切って美鈴は自分から声を出した。
「あの屋台は土日は来ないの」
「そうか、休みの日は売れないからね」
「代わりにクレープの店が来る、らしい。 よく知らないけど」
「甘いものは嫌い?」
「そうじゃないけど、クレープじゃおなかいっぱいにならない」
「実利主義者か」
「貧乏なだけ」
  そう答えても美鈴は平気だった。 この見るからに金持ちの青年に見栄を張ろうとは思わなかった。 思っても、今の格好では無理だろうが。
  白い歯できれいにサンドイッチを食べ尽くした後、青年はにこにこしながら美鈴をながめた。
「君は何してる人?」
「看板描きのアルバイト。 フリーターなの」
「僕もしたことあるよ」
  驚いたことに、金持ち青年はこともなげに言った。
「ラーメン屋の看板とか、ちらしのデザインとか。 子供のころは漫画家になりたかったんだ」
「はあ」
  何と答えたらいいかわからなかったので、美鈴はぼんやりと相槌を打った。 無意識に脇のポケットを抑えていたが、そのとき、左のポケットの上から硬いものが指に触れた。
  硬貨だ! 急いで取り出すと、行方不明だった百円玉だった。 ほっとして、美鈴は青年にその硬貨を差し出した。
「お金ありました。 ありがとう」
「どういたしまして」
   彼はまたニコッとした。
  そのとき、前方からダミ声が響いてきた。
「おおい、レイ! 食い終わったらさっさと来い! 今日中に仕上げだぞ!」
  あわてて飛び上がると、美鈴は走り出した。 親切な青年に別れを告げるのも忘れて。

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