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表紙

霧のベリンダ  1


 サンフランシスコは、便利な町とはいえない。
 丘陵地にあるため、波のうねりのような坂が多く、歩きまわるのは一苦労だ。 馬力の低い自動車なら、坂の途中でエンストを起こしてしまうほどだった。

 おまけに、その年、つまり一九○五年の冬は、記録的な寒さが続いた。 雪の降らない街中にも霜が下り、郊外の山々は裾野近くまで白い衣で覆われた。
 凍りつく道路は、馬にも人にも、もちろん車にも危険だ。 夜になってベネシャン・ストリートの家を出るとき、リンゼイ・ハーコートは車をスマートなスポーツ・カーのプリンス・ヘンリーではなく、国産の頑丈なリムジンにして、運転をミルナーに任せた。


 きつい坂道をできるだけ避け、遠回りして、車はノースサイド・ブリッジに差しかかった。
 橋は静まり返っていた。 クリスマス・イヴは家で団欒して、七面鳥を食べようという連中が多いのだろう。 独り者には侘しい季節だった。
 対向車の来る気配はなかったが、深い霧がたちこめているので、ミルナーは注意深くスピードを落とし、ゆっくりと進んだ。 その夜は特に霧の量が多く、五ヤード先がもう見えにくかった。 白い天幕が空から降りて、すっぽり橋を包んでいるかのようだった。
  後部座席で、リンゼイはゆったりと背もたれに寄りかかり、ガーゼのようにうっすら水滴の膜を張った窓に目をやった。 外の景色は、ほとんどわからない。 ガス燈の光が遮られているからだ。 雲の中を突き進んでいるようなものだった。
 だが、橋の半ばまで来たとき、車の起こす風で、霧のカーテンが揺らいだ。 左の橋桁〔はしげた〕が、ほんの一瞬チラッと見えた。
 とたんにリンゼイは、素早く体を起こした。 そして、ミルナーに低く命じた。
「止まれ」
「はい」
 忠実なミルナーは、訊き返したりしない。 すぐにブレーキをかけて、なめらかに車をストップさせた。


 ドアを開くと、凍りつく冷気が忍びこんできた。 リンゼイは、均整の取れた体を厚手のマントで巻いてステップを降り、大股に橋桁へ向かった。
 そこにも、霜が降りていた。 交差した鉄が、網目模様に鈍く光っている。 その前に、くしゃっとつぶれた布バッグと、小さな靴が一揃いあった。
 更に、バッグの持ち主らしい女が、橋桁の上に、すっくと立っていた。


 橋の外側に体を向けて、女はまっすぐに立ち尽くしていた。 どこにも掴まっていないし、びくとも動かない。 うっかり置き忘れた彫像のようだった。
 リンゼイは、慌てて駆け寄るようなまねはしなかった。 コツコツと靴音を響かせて、普通に歩いていった。
 それでも、女はじっとしていた。 すぐ傍まで近付いてから、リンゼイはようやく声をかけた。
「よく立っていられるな」
 動かないようでいて、女が微妙な筋肉の動きでバランスを取っているのを、リンゼイは素早く見てとっていた。
 その言葉を聞いて、女は体を九十度回し、橋と直角の向きになった。 意外なほど明るい声が返ってきた。
「簡単よ、こんなの」
「上がれば遠くまで見えるのか? 無理だろう? この霧では」
「考えてたのよ。 右へ行こうか、それとも左か、いっそ前にしようか、なんてね」
 まだ迷っている。 この世に未練があるらしい。 リンゼイはマントを撥ね上げて、右手を出した。
「それなら、下りて運試しをしないか?」
「運?」
 フードを被った女の顔が、斜めになってリンゼイを見返した。 霧のせいで目鼻立ちはわからない。 声は若く、張りがあった。
「おかしなこと言うのね。 運が悪いから、ここにいるんじゃない」
「そうとも限らないよ。 君は回りに運を贈るタイプなのかもしれない」
 リンゼイは平然と続けた。
「これからカジノへ行くんだ。 わたしの幸運の星になれたら、儲けの半分を君にやろう」




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