「あんたは顔だけ」
聞き飽きたそのセリフ。
小学校のときから、ケンカすると敵の女は必ずといっていいほどそう言った。
そうかもしれない。 体育――ふつう。 成績――並み。 特技――なし。
これではね。
それでも敵さえ認めるこの顔があれば! と言い切れるほど、結香(ゆうか)は強くなかった。 だから、それなりの夢を持って入った会社で、さっそく受け付けに指名されたときは、なんだか肩がしぼんだ。
やっぱり顔か・・・・
受け付けだから、それなりにもてた。 それを言うなら、大学時代から男友達に不自由したことはない。 合コンには行ったことがないし、行く必要もなかった。 キャンパスを歩くだけで声をかけられた。
私は軽いんだ、と、声がかかるたびに思った。
付き合いは自然消滅がほとんど。 なんとなくこっちから遠ざかる。 幸い、デートを断って怒られたことはないし、付きまとわれた思い出もない。 それがまた、やっぱり《顔》だけなんかなあ、という思いにつながるのだが。
入社半年で、この人なら、という相手に出会った。
急に雨が降り出した昼過ぎ、行きつけの小さなレストランから急いで戻ろうとして、人にぶつかってバッグの中身を歩道にぶちまけてしまった。
ルージュからコンパクトから予備のメガネまで散乱している。 泣きたい気持ちでかがみこんだら、ぶつかった相手とまた頭が当たった。
「ごめんなさい!」
「いや、こちらこそ」
彼も急いで身をかがめて、こまごまとしたものを拾おうとしていたのだ。 車道の横にまで転がり出たアトマイザーを、つぶされる前に素早く取ってきてくれたのも彼だった。
名前は相田悟朗。 結香の勤務先から2ブロック離れた《MK商事》に勤めているサラリーマン。 派手ではないが整った顔立ちで、27歳にしては落ち着きがあり、しかも親切だった。
秋に知り合って初冬にキスを交わし、12月初めに結香の部屋で抱き合い、クリスマス・イヴに婚約指輪を交わした。 後は結婚の日取りを決めるだけだった。
そこで、何かが起きた。 正月を境に不意に悟朗の足が遠のき、電話が来なくなった。
そんな日が2週間も続くと、さすがに結香にも不安がきざした。 これまで振られたことはない。 なぜか一度もないのだが、これはもしかすると……
1月末の凍るように冷えた日、結香は昼休みを早めにとって、《MK商事》の天まで届きそうな本社ビルに行った。
姿を見てから電話しようと思った。 こっちは見られずに実態を観察する。 ガラス越しにでも顔色や動作を見れば、本心がわかるはずだと結香は思ったのだ。
運がよかったというべきなのか、さりげなくガラス張りの正面を通り過ぎようとしたとき、巨大なホールの端に設置されたエレベーターの一台が開いた。 そして、中から悟朗本人が姿を現した。
その腕には、しゃれた着こなしのかわいい美女が、しっかりと腕をからませていた。
とっさに結香は、柱の陰に寄って後ろを向いた。 そして、二人が楽しげに笑いあいながら出ていったのを見とどけてから、そっと後をつけた。
二人は食事に行くところらしかった。 女の方が積極的で、肩をぶつけ、人目もかまわず胸にもたれたりしている。 恋人同士なのはだれにでもわかった。
会社に戻ってから、結香は考え込んだ。 横にいる同僚の佐伯真美が心配するほどどんよりしてしまった。
「結香、ゆーか! どうしたの? 目が寄ってるよ」
こういうとき素直に相談できればいいんだがな・・・・結香はうなだれた。 大学のとき、電話をもらえなくなった男の子たちがどう感じたか、はじめてしみじみと理解できた。
すぐに電話すべきだったのかもしれない。 だが、結香は待つほうを選んだ。 というより、何もしないほうを選んだ。
帰ってこないだろうな、という予感があった。 それなら修羅場を避けたい。 私って情けない、と自分に嫌気がさしたが、そういう性格だからしかたがない。 結香はもう2週間普段どおりの生活を続けた。
それから、突如変身した。
昼間は変わらず受け付けで、職業的な笑顔を浮かべ、案内をした。 あの子はいつ来ても応対がおだやかでいい、と誉められたりした。
しかし、日が落ちると……
狼男の伝説は信じないが、自分が夜になると別人になることは何となく感じた。 一度もヘアダイしたことのない髪にカラースプレーをかけてくしゃくしゃっとゆるく結び、大きなカラーサングラスをかけ、座るとビリッといきそうなタイトパンツをはいて夜の街に出る。 たまらない解放感だった。
どっちかというとカワイイ系の美人だから年より若く見え、クラブやパブ、ボーイズバーなどで会ったおっさん、兄ちゃんがおごってくれた。 飲むと気が大きくなって、踊ったり歌ったりする。 会社の同僚は信じないだろうが、結香はどちらも上手だった。 なにしろ大学のダンスの授業でA+をもらっているのだ。
わあわあ踊っていると、男はとうぜん、誘いをかけてきた。 ちらっと顔を見上げて趣味じゃないと思ったので、結香は化粧室 (ようするにトイレだね) に逃げ込んだ。
こうして、うまく男の手をかいくぐりながらダンスと酒を楽しんで、3週間ほどが過ぎた。 やがて、意外に逃げ足の鮮やかな結香にイラついたのだろう。 常連男の誰かがカクテルに一服盛った。 そんなに飲んでいないのに、結香はカウンターにつぶれてしまった。
隣に人の座った気配がして、初めて聞く声が降ってきた。
「どうしたの? 気分が悪い?」
「ううん、眠いだけ」
半分だけ目を見開いて、結香は答えた。 すると男は言った。
「よく眠れるところに行こうか」
覆いかぶさる睫毛の下から、結香は男を観察した。 眠くて眠くてよく見えないが、いい口元をしていた。 やや大きめで、親しみやすい口・・・・この人なら一晩付き合ってもいいかな、と思いながら、結香はゆっくりうなずいた。
連れて行かれたのはホテルではなく、ちゃんとしたマンションだった。 たぶん男の自宅だろう。 相当に酔いがまわった感じでふらふらしている結香を、男は支えながらエレベーターに乗った。
それからのことはなーんにも記憶にない。 目を覚ましたときは頭から布団をかぶっていて、ぼうっと明るい洞窟の中にいるような気がした。
もそもそ起き上がったとたんに真っ白な壁が目に入って、あやうくベッドから転がり落ちるところだった。
どこだ、ここは!
とたんにひどい頭痛に襲われて、頭をかかえてうずくまった。 服は、きのう着て出たままの格好だ。 寝乱れた以外はまったく変わりないので、何もされていないのがわかった。
ベロベロでだらしなすぎてその気がなくなったのかな、と思いながら見回すと、ベッド横のサイドテーブルに、メモが置かれていた。
『戸閉まりは気にしないで、そのまま帰ってください』
それだけだった。 モデルルームのような億ションに、結香はひとりポツンと取り残されていた。
時計を見ると、すでに8時半。 ぎゃっと叫んで、結香は男の部屋を飛び出し、みっともない服装を気にしながら電車に乗って、アパートに帰った。 マンションの表札を見ようともしないところが、いかにも結香らしかった。
着替えて出てくると、もう10時近かった。 遅刻はこれまでしたことがない。 青い顔で受け付けに転がり込むと、顔に徹夜クマが住みついているとひやかされた。
たしかに、後で化粧室にいくと、目の下がえらく黒ずんでいた。 結香はふるふると頭を振った。
(いかん、こんなことを続けていたら身の破滅だ。 心を入れ替えよう。 新しいオトコを探すんだ!)
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