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Chapter U-12


 コリンヌは、裏木戸を開いて仄暗い道に出た。
 角を曲がると橋が見える。 少し遅れたから、待っているかどうか気になったが、パトリスは欄干に寄りかかって、水の流れを眺めていた。
 この付近は裏手なので、夜はほとんど人通りがない。 コリンヌは用心しながら、月明かりを頼りに橋に近づいた。
 相手もすぐに、黒っぽい人影に気づいた。 寄りかかった体を起こすと、パトリスは澄んだ声で呼びかけてきた。
「コレットか?」
「ええ」
 どうか手が震えませんように、と、コリンヌは必死で祈った。 チャンスは一度だけ。 絶対に外さないようにしなければ。
 火皿に火薬を載せてセットした拳銃を、揺らさないように取り出すと、コリンヌは黒いマントの陰で、パトリスに狙いを定めた。


 そのまま数歩近づいたとき、パトリスに異変が起こった。 彼の目が急にコリンヌから外れ、欄干を通り越して、川に向いた。
「そんなところで何を……」
「え?」
 自分に言われたと思い、冷水を浴びたようになってコリンヌが問い返した。
 指が引き金にかかった。 まさにその瞬間、パトリスが信じられない動きをした。
「ポーレット!」
 叫びと同時に橋を斜めに突っ切って走り、反対側の欄干にぶつかって、あやうく川に墜落しかけた。


 バンッという発射音が、空しく橋の空気を震わせた。
 パトリスは、放心した表情で体を回し、コリンヌを凝視した。
 コリンヌは、銃を手からすべり落とすと、膝を折って顔を覆った。
 指の間から、嗚咽が漏れた。
「もうお終いだわ。 私を殺すんでしょう? それともまた、さらっていくの? どっちにしても、もう逃れられないんだわ……」
 不意に足音が聞こえ、背後の闇から男が抜け出してきた。 彼は手に長い木の棒を持ち、しゃがみこんだコリンヌの前に雄々しく立ちふさがった。
「連れてなんか行かせないぞ。 殺されても彼女を守る。 さあ、かかってこい!」


 パトリスは、石畳に転がった拳銃を眺め、コリンヌに視線を移し、最後に、武者震いしているシルヴァンを見た。
 そして、どこか心の飛んだ様子で呟いた。
「そうか。 わたしの取り越し苦労は、余計なお世話だったようだな」
「何を言っているんだ!」
 シルヴァンが怒鳴った。
「お前がコリンヌの前の恋人にしろ何にしろ、もう終わったことだ! この人はわたしの妻になる。 絶対幸せにしてみせる!」
「それでこそ男だ」
 パトリスは、優しいぐらいの口調で応じた。
「誤解したようだが、わたしは彼女の恋人じゃない。 かつての敵だ。 復讐を恐れているのは、むしろわたしのほうかもしれない。
 昔は何も持っていなかった。 だが今は、かけがえのない妻がいる。 だからコレット……コリンヌが幸せを守るため人殺しをしようとした気持ちは、よくわかる」
 それから苦笑して、小声で付け加えた。
「当たらなくてよかった。 今では味方なのだ。 信じられないだろうが、少なくとも敵ではない」
 橋の向こうから、もう三つの影が登ってきた。 その一人が、重々しい口調で告げた。
「その女性のためにも、命中しないでよかった。 隊長を殺していたら、彼女も我々に蜂の巣にされたところだ」




 三日後の晴れた午後、ポーレットは熱がようやく下がって、起きてもいいと医者に許された。
 月の明るかったあの夜、庭でパトリスの幻影に逢った直後から熱が出て、悪い風邪ではないかと周りを心配させた。
 汗で濡れた寝巻きを換えながら、家政婦のボーデ夫人は何度も繰り返し言った。
「具合が悪いのに、夜露の降りた庭に出たりするからですよ。 幻を見たのも熱のせい。 気をつけてくださいね。 奥様に万一のことがあったら、お世話係の私たちが殺されちゃいますよ」


 それでも、暖かい日の当たる庭で椅子に座るぐらいなら、気分転換になる、とルメートルが運んでくれた。 久しぶりの戸外の空気に、ポーレットがうきうきしていると、もっと心弾む物音が近づいてきた。
「馬!」
 パッと立ち上がったポーレットは、一瞬よろめいたが、すぐ体勢を立て直して、厩の方角へ小走りになった。


 ポーレットの姿を見つけたとたん、パトリスはまだ止まらない馬からすべり下りて、夢中で駆け寄り、抱きしめた。
「ポーレット! ああ、わたしのポーレット……」
 彼に何か起きるのを、ポーレットはずっと心配していた。 だからただもう嬉しくて、無精髭が頬をこするのも気にならなかった。
「お帰りなさい、無事でよかった、本当に、本当に」
 ほんの少し体を離すと、パトリスは不思議そうに妻の顔を見つめた。
「知らないのかい? 君がわたしを助けてくれたんだろう?」
 ポーレットは首をかしげた。 何のことだろう。 どうしてそんなことを?
 彼女に心当たりがないらしいと悟って、パトリスは瞬きした。
「気づいてなかったのか? 夢の中で起こったのかな? 夢は見てすぐ忘れるというからな。
 おいで。 話してあげるよ。 君が川にふわりと浮かんでいたんだ。 白い寝巻の裾をなびかせて、まるで天使のように。
 そのときは心臓が止まりそうだった。 君に悪いことが起きたと思った。 でも、違ったんだ。
 ああ、わくわくするようなことだよ。 わたしたちはきっと、魂の奥底で結びついているんだ」
「そうなの? それが真実なら、どんなに嬉しいか」
 蔦のように絡み合って寄り添い、頬を寄せながら歩いていく二人を、三人の部下たちは黙って見送った。
 やがてミシェルが咳払いして口を切った。
「俺たちのことなんか、忘れ果ててるな」
 ピエールが肩をすくめ、いっぱしの大人口調で言った。
「こういうときは、酒に限るよ。 シルヴァンさんまで小遣いをくれたから、パッと使おうぜ」
「そうするか」
「俺たちにはまだ天使はいないからな」
「おまえなんか、永久に見つからねぇよ」
 三人は仲良く小突きあいながら、疲れた馬を馬番に預け、新しい馬を借りて、パリの街に繰り出していった。


〔完〕







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