表紙

怪盗ゲイル 1


 新しい蔦はおとなしく体にそって波打つだけだが、枯れかけた葉は手の下でかさかさと音を立て、つるは指をかすって傷つける。 しなやかに城壁の壁を伝い降りながら、ゲイルは口の中で舌打ちした。
「手入れが悪いぜ、オンボロ貴族さん」
 一分も経たないうちに、とん、と地面に降り立ったゲイルは、低く口笛を吹いた。 すると鼻をつまんでもわからないほど漆黒の暗闇の中から、これまた真っ黒な姿がかすかな蹄の音とともに近づいてきて、ゲイルの横に立ち、首を振りたてて小さくいなないた。
 あわててゲイルは愛馬に耳打ちした。
「シッ、誰が聞いてるかわからないんだ。 声を出すなって」
 馬は今度は首だけ振った。 うなずいているように見える。 ゲイルは満足そうにたてがみを軽くさすってやって、ひらりと飛び乗った。 そして、ものの一呼吸もしないうちに辺りは静まり返り、ナイチンゲールの声が遠くに響くだけとなった。

「あなた! アナタ! 助けて、あなた!」
 悲鳴に近い声が三階の広い廊下にこだまするので、書斎でインク壷の口をあけようとしていたレンフィールド卿の手が止まった。 眉がしかめられた。 謹厳な卿は、はしたない騒ぎが何より嫌いだった。
 珍しく、戸を押し出すようにして、夫人のマグダが駆け込んできた。
「あなた!」
「どうしたんだ、こんな朝早くから」
 机の時計は6時半を指している。 秋が深まってきたので、まだ窓の外は真っ暗で、星がいくつも消え残っていた。
 夫人は取り乱し、レースのハンカチを両手でもむようにして泣き声をあげた。
「ないの。 おととしの誕生日にあなたがくれたエメラルドのネックレス」
「なんだと!」
 椅子から勢いよく立ち上がったはずみに、机に膝を思い切りぶつけて、レンフィールド卿は顔をしかめた。
「くそっ!」
 足を引きずりながら、卿は妻のそばへ歩み寄った。
「壁の金庫に入れておけと言ったはずだぞ!」
「入れたわ」
 夫人の声がふるえを増した。
「ちゃんと入れたのよ。 昨夜、晩餐会が終わったすぐ後に。 ね?」
助けを求めるように、マグダ夫人は入口におとなしく控えている小間使いのメアリに呼びかけた。 メアリは確信を持って答えた。
「はい。 奥様はたしかに昨夜、お寝巻きに着替えられるすぐ前に、金庫に入れて鍵をかけられました」
「じゃあなぜ盗まれる!」
 レンフィールド卿の声が大きくなった。
「宝石箱ごと取られたのか?」
「いいえ」
 夫人はまばたきし、考え込んだ。
「そういえば、不思議ね」
「エメラルドだけか!」
「ええ……」
 夫人はなおも言い継ごうとしたが、かっとなった夫は聞く耳もたなかった。
「すぐ部屋を見せなさい。 何か跡が残っているかもしれん」

 夫と妻と小間使いのメアリ、それに従僕のピーターを加えて総勢4人は、かたまりになって廊下を急ぎ足で歩いた。 築2百年になるバーン城は古風で、夫婦の寝室がなんと城の両翼に分かれている。 歩いて10分、走っても――駆けつけるほど情熱があるならもっとそばに部屋を置くだろうが――5分という少なからぬ距離で、マグダ夫人の部屋に到着したころには、4人とも少し息切れぎみだった。
 壁の金庫は開いていた。 普段は中世の貴婦人たちを織り込んだタペストリーで覆ってあるのだが、今は横にあげて紐でしばっている。 中に入れてあった宝石箱は、現在マグダ夫人がしっかりとかかえていた。
 金庫の四角い扉を調べながら、レンフィールド卿はたずねた。
「朝起きて、あっちの寝室から出てきたら、このありさまだったのか?」
「ええ、タペストリーはこうじゃなくて、金庫の扉に引っかかっていたけど」
 夫人の居室は3間から成り立っている。 廊下へのドアはひとつで、そのドアをあけると第一の部屋、いわば居間になっていて、南の大きな窓からかわいた風が吹きこんでいた。
 残りの2部屋には、その居間から入る。 窓に向かって右側に夫人の寝室、左側の小部屋には小間使いが寝泊りしていた。
 金庫は、窓の右側の壁に取り付けてあった。 古い壁は頑丈な石造りなので、四角い石を1つ取り外して、できた空洞に鉄製の箱を埋め込んだのだ。 当時としてはよくできた隠し場所で、レンフィールド卿はひそかに自慢していた。
 だから、まんまと盗まれたと聞いて頭に血が上った。 目を近づけて見ると、金庫の扉に取り付けた鍵穴には何かをねじ入れた跡があり、金属の棒のようなものでこじあけたのがわかった。
「くそっ」
 もう一度つぶやくと、卿は窓辺に向かった。 そしてすぐに、窓の外に張り出した小さなベランダの木柵に、巨大な猫が引っかいたような細い溝が新しく刻まれているのを発見した。
「手鉤だ。 あの木に登って」
と、ベランダから10フィートほどの距離まで大きな枝を伸ばしている樫の木を指差し、
「あそこからロープのついた手鉤を投げてこの柵にかけ、乗り移って窓を開けて、忍び込んだんだな」
「まるで『ロミオとジュリエット』ですね」
 一同が振り返ると、入口に一人の青年がもたれていた。 栗色のちぢれ髪と灰色の眼をしたなかなかの美青年だ。 彼はにやっとして言葉を継いだ。
「マグダおばさまはジュリエットの2倍、いや3倍のお年ですけどね」
 むっとして、マグダは甥のヘンリーに言い返した。
「くだらないこと言ってないで、犯人捜しを手伝って。 あなた若くて、眼もよくきくんでしょうから」
 高いカラーに指を入れてアスコットタイをゆるめながら、ヘンリーはのんびりと言った。
「探してもいいですけど、犯人を見つけたら取引して、ネックレスを金に代えて山分けするかもしれませんよ。 あれって2百ポンドはくだらないんでしょう?」
「不良!」
 罵られても、青年は平気だった。
「一年に一回か二回しか身につけないようなものに、なんであんなに大金かけますかね。 ロンドンじゃ餓死者が裏道に転がってるというのに」
「社会主義者か! 自分の階級をよく考えなさい」
 レンフィールド卿はにがにがしげに説教して、また金庫の検分に戻った。 そして、不意に眼をこらした。
「おっ」
 得意げに指先でつまんだのは、よく見えないほど細いものだった。
「金髪だ」
 ヘンリーの顔がふっと引きしまった。 メアリとピーターの視線が素早く出会った。
「金髪って……」
 マグダが口ごもった。
「この城で今、そんなに長い金髪のひとって……」
「ジェニファー・ソーンダースだけですね」と、ヘンリーが静かに言った。

 30分後、着替えを済ませてせかせかと階段を下りながら、マグダはメアリにぐちをこぼした。
「ジェニファーですって? ばかばかしい! 髪の毛の一本や二本、泥棒の袖かなにかにくっついて偶然金庫に入ったにきまってるじゃない。 あのジェニファーが、ベランダによじ上って窓や金庫をこじ開けるですって? うちのひとも何考えてるんだか!」
 背後から突然追いついてきたヘンリーが口を入れた。
「本人じゃなかったらもっと問題ですね。 なぜあの美人の髪が、泥棒の袖にくっついたか」
「いやなことばかり言う人ね、まったく!」
 マグダは鼻息荒く怒った。
「うちで預かっている大事なお嬢さんよ。 妙な噂立てたら承知しないから」
「へんな虫がつかないように、こんな田舎に預けられたんですもんね。 貿易商にして高名な絵画コレクター、東インド会社の重鎮、故ウィリアム・ソーンダース氏のただ一人の相続人。 大切ですよね」
「もう! あっちへ行って!」
 流行の薄いストールで甥を振り払うと、マグダは小走りで二階の奥に行き、大きなドアをノックした。
 澄んだ声が応じた。
「はい?」
「ジェニー、私よ。 マグダ」
「どうぞ」
 マグダがかすかにきしむドアを開くと、窓辺に座っているジェニファーが見えた。
 息を呑むほどの美しさだった。 淡いブルーのドレスの襟元を大きくあけ、胸の下できゅっと締めて、そこからは何の拘束もなく足首までスカートが垂れている。 いまどきの若い女の服はまるで下着で歩いているようだと新聞には酷評されていたが、最新ファッションを着こなす若い娘たちは気にもかけなかった。
 よく見ると、ジェニファーは一人ではなかった。 どっしりした書き物机に男が寄りかかっている。 牧師のアルフレッド・ラーキンだった。
 マグダは驚いた。
「まあ、牧師さま、ずいぶん早い時間から」
 まだ32歳の若い牧師は、困ったように口を開いた。
「ざんげしたいとおっしゃって、あの人」
と、隅に目立たぬように座った世話係のグレイ夫人を眼で差し、
「あのご婦人が呼びに来たので、たった今うかがったのですが」
 ざんげ…… 19歳の娘がざんげと言うと! マグダの頬がこわばった。
「ジェニー、あなた何か、やましいことを?」
「いいえ、おばさま」
 けだるそうに、ジェニファーは答えた。 常に感情を表さない娘だ。 冷静といえば聞こえがいいが、まるで人形。 それも蝋人形だ。 いくら絶世の美人でも、こう表情がないと殿方には愛されないだろうに、とマグダはひそかに思った。
 ヘンリーの頭がドアの隙間からひょいとのぞいて、面白そうに言った。
「おや、ラーキンさん、ジェニーと逢引だったんですか?」
 たちまちラーキンのこめかみに筋が立った。
「言っていいことと悪いことがありますよ、ヘンリー君!」
「そうですか」
 ヘンリーはけろっと言った。
「僕は子供のころからその区別がつかなくてね。 何度ムチでなぐられたか」
「よせよ、ヘンリー。 下へ行こう」
 廊下からそう言ってヘンリーの腕を引いたのは、友人のアラン・フィッツパトリックだった。 ヘンリーよりずっと常識があるので、マグダはほっとしてほほえみかけた。
「このやんちゃ坊主の面倒をみてやってね。 わるいけど」
 アランも穏やかにほほえみ返し、がっちりした体格を使ってヘンリーをドアからブロックして、なかば無理やり下へ連れていった。 アランはヘンリーの大学での同窓生で、半年前からは特に親しく交際していた。 
 ラーキンはまだ、乱れた気分が収まらないようで、ドアをにらみつけていた。 くせのない黒い髪が、何度振りはらっても額に垂れてくる。 とうとう指でかきあげながら、低くつぶやいた。
「どうしてヘンリー君は僕に突っかかってくるんですかね。 こんな田舎の貧乏牧師に」
「誰にでもああなんですよ」
 マグダはふうっと息を吐いた。
「母親が死んでからずっとあの調子で」
「ああ」
 ラーキンは思い出して口元を引きしめた。
「ヘンリー君の母君は、たしか強盗に……」
「殺されたんです」
 マグダも声をひそめた。
「12才のときに。 だからうちで引き取って面倒みているんですが、いつもあの調子で扱いにくくて」
「大丈夫ですよ」
 牧師がなぐさめた。
「もうじき成年ですよね。 若い人は都会に行きたがる。 厄介なのはあと少しだけですよ」


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