表紙

星並べ 1


 しっとりと湿った空気が、やわらかな若葉の匂いを運んでくる。 濡れたスカートの裾を絞りながらも、エドナは楽しそうに眼を細めて、淡くけむる並木を見渡していた。
  春。 5月の末。 国中が一番美しく萌えあがる季節だ。 クリーム色の桜草が灰色の地面を覆い、若草が野山を埋めつくす。 今度の土曜日にでも、エイプリルと一緒にハイドパークへ花摘みに行こうかな、と思いながら、エドナは目をつぶって両腕を広げ、大きく伸びをした。
  その左手に何かが当たった。 びっくりして目を開けると、若い男が頬を押さえてよろめいていた。
「まあ、ごめんなさい!」
  あせってエドナは口ごもった。 この青年も不意に落ちてきたにわか雨から身を守ろうとして、この菓子店の庇に駆け込んできたのだろう。 横から入ってきたので、エドナの視界に入るのが遅れたのだ。
  頬から急いで手をおろして、青年は言った。
「いや、気にしないで」
  辺りが一段と薄暗くなった。 黒雲が空を包囲し、覆いつくそうとしている。 雨は無数の銀の槍のように道を突き刺し、気温がじわじわと下がってきた。 濡れたスカートに脚を冷やされて、エドナは思わず身震いした。
   そのとき、すっと暖かいものが肩を覆った。 驚いて顔を上げると、青年がコーデュロイの上着を脱いで着せかけているところだった。
  大きな眼で2つか3つ年上の青年の顔を見つめて、エドナはささやくように言った。
「ありがとう。 でもあなたが風邪を引くわ」
「平気。 学校のフットボールの授業じゃ、終わった後、水で体を洗うんだよ」
  そう言い終わったとたん、青年は大きくくしゃみした。
  思わずエドナは笑い出してしまった。 青年も顔を赤らめて微笑した。 首筋までほんのり上気している。 彫像のようにきれいなのでエドナが見とれていると、彼はますます赤くなって、もじもじし始めた。
「ええと、どこかおかしい?」
「ううん」
  エドナはすっかり余裕を持ってしまった。 気品のある美貌で一見近寄りがたく見えるのに、この青年は話すと素朴で、なんとなく要領が悪そうだった。
  ちょっと近づいて寄り添うと、エドナは気さくに喋り出した。
「その話し方、ケンブリッジ?」
「いや……オックスフォード」
「お金持ちなんだ」
「そんなことないよ」
  わざとすりよってくる娘にたじたじとなりながらも、彼はうれしそうだった。
「僕は中産階級だけど、一人っ子だから、親が行かせてくれたんだ」
  親か…… エドナは少ししゅんとなった。 彼女の両親は叔父の家の手伝いに行ったとき、井戸水からチフスにかかり、相次いで世を去ってしまった。 それから2年、懸命に働いて何とか生計を立てているが、辛い日々だった。
  彼がもう一度、割れるような大きなくしゃみをしたので、エドナは急いで上着を脱いで押しつけた。
「私のせいで肺炎になっちゃうわ」
  彼はすぐ断ろうとしたが、気を変えて低い声で提案した。
「じゃ、2人で被ろうか」
  さらっと言ったつもりだったのだろうが、口に出したとたんにレンガのように真っ赤になってしまったので、効果が台無しだった。 エドナは唇を噛んで笑いをこらえ、まず彼の背中に上着を被せて、それから前で両方の襟を掴み、間に体をすべりこませて、彼の胸の中に収まった。
  青年の鼓動が、新聞売り子のベルのように凄い速さで鳴っていた。 こんなささやかな触れ合いでも、彼には大冒険なのだろう。 間もなく彼は、暖かい状態を通り越して、こめかみに薄く汗をにじませた。
 
  15分ほどで夕立はやんだ。 まるで夜明けのように、銀色の道が白く輝きはじめた。 エドナは、居心地のいい青年の胸から顔を起こし、明るく言った。
「ありがとう、あったかかったわ。 それじゃね」
  雲が星型に切れて、太陽の光が幾筋も広がり、エドナの緑がかった瞳をエメラルドのように輝かせた。 青年が、ぎこちなく大きな手を伸ばして、エドナの肩に触れた。
「また会ってくれないか?」
  この言葉こそ、15分間ずっとエドナが密かに待っていたものだった。 愛らしく口をほころばせて、エドナは答えた。
「いいわよ。 いつ、どこで?」

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