表紙


  昇は、笑いになりきらない気弱な表情を口元に貼りつけて、文佳を見た。
「やあ…… ここに来たんだってね。 親父に聞いたよ」
「親父に会ったのか?」
  ようやく衝撃から醒めて言語能力を回復した宏が、低く尋ねた。
「ああ。 病院からウルグァイに知らせがあってね。 危篤だというから、すっ飛んで 帰ってきたんだ」
「危篤なんかじゃないよ。 心筋梗塞のごく軽いやつだ」
「そうなんだってな。 どこかで手違いがあったらしい」
  文佳の視線を避けながら、昇は靴を脱いだ。


  3人はいったん茶の間に座った。 気詰まりな沈黙が続き、やがて宏が口を切った。
「いつまでいられるんだ?」
「一応一週間休暇を貰ったが、行き帰りがあるから、実質は3、4日かな」
「そう」
  また会話が途切れた。 文佳はなにも言わなかった。 言う気になれなかった。
  また宏がぽつんと言った。
「日本に帰ってきたばかりで疲れてるだろう。 今夜は休んで、明日話そう」
「そうだな」


  昇は外で軽く食べたそうだった。 文佳は全然食欲がわかなかった。
   宏は、いったん脱いだコートをまた羽織って、
  「ラーメンでも食べてくる」
  と言って、出ていった。


  昇が風呂に入っている間に、文佳は部屋にもう一組布団を敷いた。  疲れ、物悲しい気分だった。
  昇は、少し離して敷いてある布団の上にあぐらをかくと、タオルを首にかけて、文佳を見た。
「……悪かった」
  言いたいことは山ほどあった。 あったはずだった。 それが、さっきの宏とのキスで、粉々になった。 文佳は今、どうしたらいいかわからなくなっていた。
「どうしたかったの、昇は? それだけ聞きたい」
「ほんとに悪かった」
  不意に昇は正座して、頭を布団にくっつけた。 文佳は閉口した。
「やめてよ、そんなこと」
「卑怯者だと親父に言われた。 そのとおりだ。 しっかりしなくちゃと自分でも思う」
  後悔してる。 やり直すつもりなんだ・・・・
  そうわかっても、なぜかうれしくなかった。
「やっぱり明日にしましょう」
  文佳は強引に昇に布団をかぶせてしまった。


  時計が11時を打ってしばらくしたころ、うとうとしていた文佳は、そっと 手を握られるのを感じた。
  昇だ。 昇に求められている、と知った瞬間、文佳は暗闇で飛び起きた。  そして、半分寝ぼけた状態で、廊下に逃げ出した。


 魂の抜けた人のように、文佳は廊下を歩いていた。 そのとき、行く手にある部屋の襖が開いた。 薄闇の中にぼんやり白く浮かんだのは、宏の顔だった。 その姿目がけて、文佳は進んだ。 まるで夢の中を歩いているようだった。
  宏の両腕が上がり、文佳に向かって差し出された。 その腕の中に、文佳はすっぽりはまりこんだ。 頭がしびれ、ほとんど意識がなくなっていた。
  宏の長い器用な指がパジャマのボタンを外し、唇が首筋から胸元へと降りていった。 文佳はふるえ、眼を閉じた。
 辺りは何の物音もしない。  家中が息をひそめているようだった。


  遠くで小鳥のさえずりが聞こえた。
 文佳は宏の胸に埋めていた顔をあげて、布団から出した。
  窓の外がぼんやり明るくなっていた。 もう朝が近い。 陶酔の夜は過ぎ、正気の1日が始まったのだ。
  パジャマはどこにいっただろう。 布団にもぐって探していると、宏が手を延ばして引き寄せた。 2度、3度とキスを繰り返しながら、文佳は思った。まだ信じられないけど、昨日一日に起こったことは、現実だったんだ、と。
  足で探って、文佳はようやくパジャマを見つけ出した。 ズボンを履き、上着をまとうと、彼女はそっと布団を抜け出した。 宏は止めなかった。


  晴れるらしく、廊下は冷え切っていた。 両手で体を抱くようにしながら、文佳は昇が寝ている部屋に戻った。
  昇は、布団を頭からかぶっていた。 その枕元に座ると、文佳は小声で呼びかけた。
「昇」
  昇はびくりともしなかった。 これでは話し合いのしようがない。 起きるまで待とうと、文佳は仕方なく、自分の布団にもぐりこんだ。
  布団の中で、ようやく文佳はものを考えるゆとりができた。
  話し合いといっても、何をどういえばいいんだろう。
 突然、つい先日まで大嫌いだった男のからだの魅力に負けて、わけがわからないうちに関係を持ってしまったと言うのか。
  私は浮気者なんだろうか・・・・文佳は半ば茫然としていた。


  5時半に文佳は起き出した。
 まだ薄暗いが、決意が固まったので、寝てはいられなかった。 どっちみち目が冴えて眠れないし。
  もう昇を愛していないことは間違いない。 ゆうべの自分の反応ではっきりと悟った。
 だが、宏への気持ちはさっぱりわからなかった。 意識と行動が見事にバラバラだ。 昨夜の行為は夢遊病の一種じゃないかとさえ、文佳には思えた。
  ともかく、昇との結婚はもうできない。 とすれば、文佳はこの家を出ていくしかなかった。
 足音を忍ばせて茶の間に行くと、文佳はかじかんだ指で、手紙を書き始めた。


  ふたりの男のうち、先に起きたのは、宏のほうだった。
 いつも通り6時半に起床して、洗面所に行き、それから茶の間に入った。
  テーブルの上にラップをかけて、朝食の準備がしてあった。 文佳の姿はなかった。


  文佳は、病院に行ってから去ることにした。 何も知らない武医師は、喜んで迎えた。
「今日、検査の結果が出るが、大丈夫だと思うよ」
「そうですね。 顔色が今朝はずいぶんいいですよ」
「午後に退院するよ」
  微笑み返しながら、文佳は胸が痛んだ。 午後にはもう、東京にはいないつもりだった。


  9時過ぎに一人起き出してきた昇は、枕元にあった文佳の置手紙を開いて、ゆっくり読んだ。
『昇さんへ
    やはり切れた縁はつながらないということがわかりました。 もう 責任を取ってくれとは言いません。 子供は私の手で育てます。
   お騒がせしました。 武先生と宏先生に、ご迷惑をかけて申し訳なかったとお伝え ください。
                         文佳』


 

午後4時、父の退院を手伝って早引きした宏が、連れ立って帰ってきた。 家は戸が閉め切り状態で、雨戸さえ半分しかあいていなかった。
「ただいま」
  父の荷物を持った宏が声をかけると、奥から昇がしょんぼりと出てきた。
「お帰り」
  兄弟の目が合った。 靴を脱いで上がりながら、宏は一番気がかりだったことを思い切って尋ねた。
「神堂さんは? 午前中に親父を見舞ってくれたんだが、退院のときは来なかったんだ」
  昇は、後ろに回していた片手を出し、くしゃくしゃになった手紙を宏に渡した。
  父親がゆっくり靴を脱いでいる間に、宏は素早く手紙を読み下した。 そして一瞬目をつぶった。
  ただならぬ気配を察して、武医師が顔を上げた。
「どうした?」
  昇が、ぽつりと言った。
「文佳が出ていった」
「なに!」
  無神経な知らせ方に、宏の額に皺が寄った。
「よせよ。 玄関で言うことじゃないだろう」
「喧嘩でもしたのか?」
「いや……」
  説明できなくて、昇は下を向いた。 宏に支えられて茶の間に向かいながら、武医師はけげんそうに言った。
「なぜ急に出ていったんだ。 今朝はそんなに変わった様子はなかったぞ」
「もう俺が好きじゃないんだよ」
「え?」
「一緒にいたくないようなんだ。 まあ、逃げ出した俺が悪いんだけど」
  当惑して、武医師は長男を見つめた。
「だが、ここを出てどこへ行くんだ? あてがないから仕方なくうちへ来た のに」
  そのとき、奥で携帯電話からかけている声が小さく響いてきた。
「はい、3日間休ませてください。 突然無理を言って申し訳ありませんが、どうしても急用で」
  父と子は顔を見合わせた。
  やがて、コートを着て小さなボストンバッグを手にした宏が、茶の間に姿を現した。
「どこへ行くんだ?」
  茶の間に座った武医師が尋ねると、宏は青白い顔で答えた。
「北海道」
  昇が思わず立ち上がった。
「文佳の実家か?」
「いくら仲悪くても連絡ぐらい取るだろう。 親なんだから」
「なぜおまえが行くんだ?」
  武医師が後ろ姿に呼びかけた。 振り返らずに、宏は言い残した。
「ゆうべ文佳さんは、俺といたんだ」

 
 残された二人は、しばらく黙然として動かなかった。
  やがて武医師が顔を上げ、立ちつくしている昇に、静かに尋ねた。
「それじゃ、文佳さんが、あれだったのか?」
  前方をじっと見つめたまま、昇はうなずいた。 武医師は天を仰いだ。
「おまえなあ、何てことを!」
「仕方がなかったんだ。 それが一番いい道だと思えたんだよ」
「結局だめだったんだろう? もういい、さっさと南米へ帰れ。 これ以上事態を混乱させるな」
「うん、そうする」
  武医師は、外まで聞こえるほど大きな吐息をついた。
「おまえと宏はちがう。 無理なことを押しつけて、あの子をつぶすな。 自分のことだけ考えろ」
「うん」
  昇の声はますます小さくなった。


  神堂病院は、あまりない名前なのですぐ見つかった。 空港からただちに、宏は病院長に連絡を取った。
  問い合わせが文佳についてだと知ると、神堂院長はとたんに迷惑そうになった。
「ああ、文佳ですか。 あの子はわたしのところでは知りません。 母親に聞けばわかるでしょう。 電話番号をお教えしますから」
  再婚相手に気兼ねしている小心者の姿が、電話でもよくわかった。 宏は心が暗くなった。
  次にかけた母親の病院でも、事情は似たようなものだった。 牧房子と名乗った女医は、宏の問に俄然用心深くなった。
「文佳? 文佳ですか? なぜお知りになりたいの? まさかあなた、週刊誌かなにかの人じゃないでしょうね」
  これで母親が事情を心得ていることは確かになった。 宏は腹立たしいのを押さえて、記者ではないと保証し、翌日午前中の、牧医師との面会を取り付けた。


 教えられた住所には、しゃれた整形外科の病院が建っていた。 再婚した夫と共同でやっているらしい。
 牧房子は娘に似たなかなかの美人だったが、文佳の持つたおやかな優しさは、まったく見られなかった。
  名刺を見て、宏が東京の医者だと知ると、房子は愛想よくなった。
「文佳は今、小樽におります。 昨日突然帰ってまいりましてね。 うちには置けませんから、小樽の親戚のところに」
  身重の娘を1日も手元に置かないで、休ませもしないうちにたらい回しか・・・・宏はカッとなりかける自分を懸命に押さえた。
「それでは体調に差し支えませんか?」
  房子はちらっと宏をながめた。
「ご存じなんですね。 でもうちの立場も考えてくださらないと。 息子は北大ですし、娘の縁談にも差し障りが出ますしね」
  そこで房子は探りを入れてみた。
「なぜわざわざ札幌まで探しにいらしたんですか? もしかすると、あの……」
「僕の子じゃありません」
  宏はずばりと言った。 房子はぎょっとなったようだった。
 「いえ、別にそうと決めつけたわけでは……」
「僕の子だったら、とっくに責任を取っています」
「そうですね。 もちろんそうですけど」
「今、文佳さんがどこにいるか、正確な住所を教えていただけますか?」
  金縁眼鏡で鋭くにらまれて、房子はあわてて住所録を取った。

 
 小樽の空は、その日どんよりと暗く、小雪がちらついていた。
 叔母の家も肩身が狭く、文佳は買い物を口実に外出した。
  店を何軒か回り、喫茶店でエスプレッソを飲みながら1時間ほど粘った後、もう行きたいところが思いつかなかったので、文佳は午後の2時にゆっくりと帰路に着いた。
 お屋敷町の、うっそうと繁って張り出した樹木の下を歩いていると、向こうから若い男がやってくるのが目にとまった。
  文佳が立ち止まると同時に、宏の方も気がついた。 彼が速足で近づいてくるのを、文佳はまるで白昼夢を見るように眼の中に捕らえた。
  なぜ…いったいなぜ、こんなところまで……
  宏はあっという間にそばに来て、文佳のすぐ前で立ち止まった。 走った後のように息が弾んでいた。
「心配した。 見つからなかったらどうしようと思った」
  低い、ささやくような声だった。
「見つからないように出てきたのよ」
  文佳の声も低かった。
「あのままじゃ収まりがつかなかったから。 ごたごたの元の私がいなくなれば、何とかなるんじゃないかと思って」
「何ともならないよ。 子供のこともあるし、君ひとりに苦労を押しつけることなんかできないよ」
  文佳はじっと、宏の必死な表情を見つめた。 そして自分の先入観が、根本から誤っていたことを知った。
  愛敬があって社交的でみんなに愛されていた坂下昇。 その昇に交際を申し込まれたとき、文佳はうれしかった。
 別にそれまで昇に興味を持っていたわけではないが、家族の暖かさに飢えていた文佳にとって、昇のようなやさしい男と築く未来の家庭は大きな魅力だった。
  しかし、付き合っているうちに、昇はだんだん上の空になり、文佳が話しかけてもぼうっとして答えないことが多くなった。 そして、子供ができたことを伝えた翌日、不意に病院を辞めて姿をくらましたのだ。
  やさしいんじゃない、優柔不断で責任感がなかったんだ、と文佳は思った。 それに引きかえ、《冷血》と言われた坂下宏は……
  文佳は踵を返すと、さっと歩き出した。 もう考えたくなかった。 昇のことも、そして宏のことも。
  すぐに宏が追いついてきた。
「待って! 話を聞いてほしいんだ」
「もう済んだの。 そもそも私がお宅へ押しかけていったのがいけなかったの」
「それは、僕のせいなんだ」
  文佳の足が止まった。 聞き間違いかと思った。 いったい宏に何の関係があるというんだ。
「あなたのせいのわけないでしょう」
「僕が原因なんだ。 水曜日に急患が二人出て、ナースが出払ったときがあったろう? あのときたまたま僕がナースの控え室に用事で行ったら、君が椅子にカーディガンをかけて出ていくところだった。
  他に誰もいなかった。 それで思わず手に取って、顔に押し当ててしまったんだ。 そこへ突然ナース長が入ってきて、見られてしまった」
  文佳はまばたきを忘れた。 突如めまいが襲ってきた。
 とんでもない。 信じられない! そんな途方もないことを……この《冷血》が……!
  宏の目に、自暴自棄に近い輝きが宿った。
「ずっと好きだった。 君がいるから、病院に出勤するのが楽しかった」
「嘘ばっかり」
  思わず文佳は口走った。
「ナースいじめが趣味みたいだったじゃない」
「そうじゃない。 君だけそばにいてほしかったから、他のナースを追っ払っていたんだ」
  文佳はあっけに取られた。
「君は義侠心が強い。 若いナースを叱ると、必ず君がかばって代わりをやる。 だから」
「そんな……」
  《冷血》にさんざん逆らった自分を思い出して、文佳は途方にくれた。
  そのとき、通りがかりの男が変な顔をしてじろじろ見ていった。 文佳は、公道で深刻な話をしていることに気づいて言った。
「あそこの公園に行きましょう」


  池のほとりを並んで歩きながら、文佳はそっと尋ねた。
「どうしてそんな回りくどいことをしたの?」
  宏はためらった。
「いろいろ理由があるけど、特に大きかったのは院長の意向だ。 俺を朋子さんの婿にしたいと何度もほのめかしていて、仲人まで決めようとしていた」
  やっぱり・・・・文佳は心の中でうなずいた。  宏には次期院長の椅子が約束されているのだ。
「いつでも断れた。 でもそうなると病院を移らなきゃならなくなる。 君に会えなくなるのが嫌だった。
 そうかといって、君と親しくなるわけにもいかなかった。 好かれてないのはわかってたし、本心がばれたら、君が首になる。 俺の片思いで、君に迷惑かけたくなかった」
  文佳は思わず口に手を当てた。 無表情でてきぱきした《冷血》の心の奥に、そんなデリケートな想いが隠されていたとは……
「だから……その金縁眼鏡で本心を隠していたの?」
  と、文佳は小声で尋ねた。
  眼鏡を外して、手の中で転がしながら、宏はつぶやいた。
「そう、君の想像通りだ。 これは素通しなんだ。
 研修医のころ、朋子さんの家庭教師を頼まれて、2年近く教えたときにかけ出した。 彼女があんまりなれなれしいんで、遠ざけるためにかけたんだが、朋子さんにはあまり効き目がなかった。
  でも、これをかけてると意地悪そうに見えるだろう? だから人に干渉されなくて好都合なんだ」
  宏はひどい恥ずかしがりで、という武医師の言葉が、文佳の脳裏によみがえった。
  そのとたん、あることが電光のようにひらめいて、文佳は立ちすくんだ。
 宏には全然欲がない。 代わりに周りがやきもきしていたとすれば……!
  それまで文佳にまるで関心を持っていなかった昇が、不意に接近してきた理由が、これだったのだ。
 文佳がいるかぎり、宏は朋子に近づかない。 昇は文佳を取り上げることによって、弟の出世を確保しようとしたのだ。
  でも結局挫折した、と文佳は目の前が暗くなる思いで考えた。 文佳を愛し切ることができなくて、昇は逃げ出してしまった。 それとも文佳を病院にいられなくすることで、目的が果たされたと思ったのだろうか。
  立ち尽くしたまま、文佳は涙を流した。 ずっとこらえていた涙は、後から後からとめどなく流れ落ちた。
  宏が肩に手をかけて、苦しげにのぞきこんだ。
「泣かないで。 兄貴は後悔して戻ってきたんだ。 君が東京に帰れば喜ぶよ。 2年経てば南米の任務も終わるし」
  文佳はあっけに取られて、宏の顔を見た。 そして悟った。
「あなたは……私が当てつけに、あなたの部屋へ行ったと思ってるの?」
  宏の視線が揺れ、地面に落ちた。 文佳の息が乱れた。
「ちがう。 どうしてああなったのか、自分でもわからないのよ。
 気がついたら、あそこにいたの。 どうしてもあなたのところへ行きたかった。 きっと……きっと本心を言えば、キスの続きがしたかったのかも」
  宏の頭が上がった。 青ざめていた顔に、かすかな血の気が戻ってきた。
  歯を食いしばって、文佳は言葉を続けた。
「でも今さら心変わりしても、どうにもならないわ。 選択をまちがったのは私自身だもの。 責任を取ると言った昇さんを振ったのも私。 だからここで子供を産んで、またナースとして働くわ」
「じゃ、俺も北海道に来る」
  文佳は引っくり返りそうになった。
「宏さん!」
「やっと名前を呼んでくれたね」
  宏はうれしそうに言った。
「君のそばにいると決めたんだ。 俺の選択だ」
「でもね、あなたは朋子さんと……」
「さっきも言ったとおり、朋子さんは苦手なんだ。 一緒にいると気詰まりで」
「じゃ、おなかの赤ちゃんのことは?」
  宏はきょとんとした。
「赤ちゃん? 兄貴の子供なら俺の子と同じだよ」
  参った、と文佳は思った。 降参したかった。 どうやら彼を愛しているらしい、とようやくわかった。
  文佳はうつむくと、辛うじてつぶやいた。
「逃げ道はないわね。 本当を言うと、逃げたくもないし……」
  宏はびくっとして、文佳の顔に注意を集中した。
 心を決めて、文佳は前にいる背の高い青年の顔をまっすぐに見た。
「私はきついわよ。 昇さんみたいに後悔しても知らないから」
  そう冗談めかして言いながら、文佳は宏の唇に唇を軽くつけた。 宏の体が、電気を通されたように震えた。 そしてすぐに、はげしくその唇を吸った。
  雲の上を歩いているような頼りなさが、再び文佳を包んだ。 胸の奥がうずき、その余韻がいつまでも尾を引いてたゆたった。
  ふたりは抱き合い、夢中で愛撫し合った。 頬から首筋まで口をすべらせ、肩に額を押し当てながら、宏がうめくように言った。
「一緒に帰ろう。 兄貴にはっきり言おう。 もう離れられない。 めちゃくちゃ好きだから」


  ふたりはできるだけ早い飛行機で、東京に戻った。 そして昇が既に南米へ戻っていったことを知らされた。
  武医師は、文佳と宏が手をつないで帰ってきても、驚かなかった。
 しかし、天井知らずに幸せそうな宏とちがい、文佳は落ち着きを失っていた。
  着替えもそこそこに、文佳は武医師のいる部屋に行って、頭を下げた。
「本当に申し訳ありません。 勝手に乗り込んできてかきまわした上に、相手の決まっていた宏さんを横取りしてしまって」
  武医師は平然と答えた。
「それは違う、文佳さん。 横取りしようとしたのは朋子さんのほうだ」
  文佳は愕然として顔を上げた。 武医師は淡々と続けた。
「昇はでしゃばりなくらいに人懐っこい性格だが、宏は子供のころから人見知りの恥ずかしがりやで、いつも兄の背中に隠れて、口もきけないような奴だった。
  研修医として秋吉河原病院に勤め出したときも、朋子さんが会いに来るのが嫌で、登校拒否ならぬ登院拒否みたいになって、病院を休みがちだった。
  それが、2年前から見違えるように明るく通勤しはじめて、無遅刻無欠勤になった。 たぶん文佳さんがあそこに来たころだと思う。 違うかね?」
  文佳は虚を突かれ、耳まで赤くなるのを感じた。
「相手は誰かわからなかったが、朋子さんも宏の変わりように気づいた。 それで院長をせっついて、婚約に持ち込もうとしたんだが、あいにく宏は、まったくその気がなかった。
  人には適性というものがある。 宏は専門職には向いているが、社交性や統率力はまるでない。 大病院の院長なんて、本人も自覚している通り、まったく向いていないんだ。 その点は、わたしによく似ているよ」
  深い感銘に打たれて、文佳は武医師を見つめた。
 野心家の両親に育てられて、文佳は無意識に、人はみな出世コースに群がるものだと思い込んでいた。 だが、たとえ少数派だとしても、そうでない人がこの世にはいるのだ。 自分に合った人生を、自分の手で選び取れる人が。
「昇は、南米から帰ったら共愛会病院に入ることが決まっているそうだ。 あいつは社交的だから、どこへ行ってもうまくやれるだろう。
  そうなると、ここは後継者がいなくなる。 この前小学校で見ただろう? 宏は、意外に子供受けがいいんだ。 実は小樽から電話してきて、昇の代わりに後を継いでいいかと聞いてきた。 他の病院で研修を受けなおすそうだ。
  でも文佳さん、あなたの意見も大切だ。 どうかね? こんな古い、小さな病院だが、住みついてくれる気はあるかね?」
  たちまち文佳の眼に、喜びの涙があふれた。



―完―






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