表紙

 底冷えのする一月末の夜
            女は訪ねてきた。
 
 


 時計は九時を回っていたが、ベルがなるとすぐ、坂下武医師は眼鏡をポケットにしまいこんで 玄関に急いだ。
「はい、今行きますよ」
  鍵をあけて、外をのぞいた坂下医師は、入口に立っていた長いコート姿の若い女をすぐに招き 入れた。 女は大きな眼を医師に向け、固い声で言った。
「さっきお電話した、神堂文佳(しんどう ふみか)です。 昇さん、どこにもいなくて、他にどうしよう もなくて来てしまいました」


 しばし医院は静まり返って、時折吹きつける木枯らしの音だけが響いた。
  坂下医師がどう切り出そうか悩んでいる内に、神堂文佳と名乗った女は、肩にかけていた大きな バッグから携帯電話を取り出して、画面に出ているメールを見せた。
「これを読んでいただけばわかります」
「まあ……まあ、お入りなさい」
  それだけ言うのがやっとだった。 医師はあたふたしながら奥の和室に文佳を通し、お茶の支度に かかった。
  もう看護師はとっくに帰っている。 筋張った手で、まちまちの湯のみに入った番茶を二つ、医師は ちゃぶ台に並べた。
「これでも飲んで。 メール、読ませてもらうよ」
  文佳はうなずき、寿司屋で出すようなごつい湯呑みから一口飲んだ。 外が冷え切っていたので、 熱いお茶は人心地がついた。
  念入りに細かい字を読み終わった後、医師は眼鏡を外して溜め息をついた。
「たしかに昇の子供のようだ」
「責任は負えないと書いてありますよね。 僕のようなものが父親の大役は果たせない、 家族を背負う自信がないって」
「……申し訳ない」
  医師は、詫びるしかなかった。 文佳は、怒ったように瞬きした。
「それで、昇さんは今どこにいるかご存じですか? この家の中にいるんでしょうか」
「いや」
  答えるのはつらかった。 特に、いいことをすると誉めて送り出した身としては。
「昇は、NGOのボランティアとして、南米に出かけました」
  文佳の眼が大きく見開かれた。
「NGO?」
「自分の子供も面倒見られないで、おこがましいことだ」
  医師は情けなさにうなだれた。
「辺地の医者としてがんばると言って出ていった。 あそこは2年は戻れません」
「そんな……」
  さすがの文佳も、こんな逃げ道は考えていなかった。 怒りと心細さが同時に文佳を襲った。
  医師は、手の中で湯呑みを転がしながら考えていたが、やがて唐突に口を切った。
「神堂文佳さん、でしたな。 ただ申し訳ないではすまされない。  ご両親にもわたしからお詫びしなければ。 どちらにお住まいですか?」
  文佳は唇を噛んだ。
「二人とも北海道です。 それに、離婚してそれぞれ再婚しているので、私のことで迷惑かけたくない んです」
  ますます厄介なことになった、と医師の目が言っていた。
「それでは、と……あなたは今どこに住んでいるんですか?」
  答える前に、ほんのわずか間があいた。
「看護師寮です。 秋吉河原総合病院の」
「ああ、昇が勤務していた病院」
  あの馬鹿、ナースに手をつけて、逃げ出して・・・坂下医師は、つくづく情けなかった。
「子供はもうじき三ヶ月です。 おなかが大きくなったら寮にいられません。 このまま勤めつづける のも無理ですし、切羽つまってこちらまで探しに来てしまいました」
  そうだ、他に道はない・・・医師の胸に、同情が湧き上がった。
「なるほど。 その子が産まれれば、わたしの初孫だ。 そばに置いてかわいがってやりたい。  わかりました。 この家は古いが、部屋数だけはけっこうある。 引っ越してきてください。 昇の 婚約者ということで、ここで気兼ねなく過ごしてください」
  文佳は目を丸くして医師を見つめた。 その大きな眼に、間もなく涙が盛り上がってくるのを認めて、 医師は急いで言葉を継いだ。
「今夜、当てはあるの?」
「いいえ」
  文佳は小声で答えた。
「ナース長に皮肉を言われたので、飛び出してきちゃったんです」
「そうか。 じゃ、奥の部屋に布団を敷いてあげよう。 荷物は明日持ってきなさい。 ずいぶん疲れ ているようだが、食事はしたかね?」
「はい、駅前のおそばやさんで」


 翌朝の6時半、宏はトレーナー姿で、朝の支度をしに洗面所に入った。 いつものように棚から コップと歯ブラシを取り出そうとした宏の手が、ぴたりと止まった。 窓から見える物干し台に、見慣れ ないものが引っかかっている。 色は淡いピンク。 形は……。
「父さん! ねえ、父さん、なんであんなものが干してあるんだ?」
  揺り起こされて、坂下医師は眠い目をこすった。
「あんなもの?」
「ブラジャーだよ、レースの」
「ああ……」
  あくびをしながら、医師はとろとろと答えた。
「それは文佳さんのものだろう」
「だれ? 患者か? でもうちは入院設備ないし。 それとも新しいナースが来たのか?」
「神堂文佳。 昇の婚約者だよ」
  不意に宏の手が、父の肩から離れた。
「神堂って……まさか、秋吉河原の?」
「その神堂文佳さん。 昇の子が腹にいるんだ。 あいつも認めている」
  異様な沈黙が流れた。
「でも兄貴は……」
「そうなんだ。 彼女、行くあてがなくてね。 だから、うちに住まわせることにした。  よろしく頼むよ」
「よろしく頼むって、でも父さん! ここは男所帯だよ。 住んでるのは父さんと俺だけで……」
「別にかまわないじゃないか。 家は充分広いし、いずれ昇の嫁さんになる人だ」
  宏は首を振った。 そして唇を噛みしめた。


 7時、いつものように宏が朝食を作ろうと台所に行くと、そこには先客がいた。 ジーンズに エプロン姿の文佳が、かがみこんで何かを探していた。
  足音を聞きつけて、振り向かずに文佳が尋ねた。
「あの、お米はどこに入って……」
  言いながら立ち上がった文佳は、宏を見たとたん、表情を硬くして、笑顔を消した。
「あ……」
  宏は視線をそらして、ぷつんと断ち切るように言った。
「あそこの棚の下」
「ありがとうございます」
  文佳の返事は、氷のように冷たかった。
「坂下先生、先生がたは朝いつも、何を食べていらっしゃるんですか?」
  廊下に出ながら、宏は短く言い残した。
「ごはんと味噌汁と納豆」
 

文佳の炊いたご飯と、作った味噌汁は、宏の材料と同じものとは思えないほど美味だった。  老医師は大いに感謝したが、宏は黙ってかきこむと、早々に自分の部屋に入ってしまった。
  息子に代わって、父が詫びた。
「すまん。 愛想のない奴で」
「いいえ。 先生の手術の手伝いをしたことがあるので、わかってます」
「そうか」
  武は、また溜め息をつきたくなった。 彼の二人の息子は、どちらも父の後を継いで医者になった。  兄は、父の病院の後継者になるべく内科医、弟の宏は外科医だ。 幸い、二人とも医者とし ては大変有能だと評判がいい。 だが、人間としては……。


  食事の後片付けを済ませた後、文佳は割り当てられた和室に戻って、座布団に座り、机に肘をつ いて顎を載せた。
  昨夜は必死で乗り込んできたので、忘れていた。 この家には坂下宏医師が住んでいたのだ。  あの有名な《冷血》坂下が。
  兄弟は、秋吉河原総合病院で、それぞれ《天使の》坂下、《冷血》坂下と陰で呼ばれて区別されていた。
 兄の昇は顔立ちが丸っこく、少し垂れぎみの眉と眼が愛敬があって、皆に愛されていた。
  一方、弟の宏は兄とはまったく違っていた。 《冷血》の前は《レーザー》と呼ばれていたのでもわかるとおり、あらゆる点で切れ味がよかった。 診察はそのものずばり、言ってはいけない病名まではっきり口に出すほどだし、切開のときの決断の素早さで、何人もの命を救っていた。 まだ30そこそこだが、名医中の名医だということは文佳も認めるところだった。
  しかし、秋吉河原総合病院の誰が嫌いといって、坂下宏ほど文佳が嫌う人間はいなかった。 彼には 情のかけらもない、と文佳は常に感じていた。 
  無愛想なのはまだいい。 冷たい金縁眼鏡をかけて、こっちが笑顔で挨拶しようがおかまいなしに、 にこりともしないで風のように廊下を通り過ぎるのも、まあいいとしよう。 だが、ミスをした看護師を氷のような声で叱りつけるのは、どうにも我慢できなかった。
  一番最近では二週間ほど前のことだった。 文佳のかわいがっている新入りナースの山田早苗が《冷血》の補佐をすることになって、とてもおびえて、失敗しないように意識するあまり、かえってミスを連発してしまった。
「鉗子の並びがちがう。 メスを早く! それじゃない! ガーゼはどこだ、ガーゼは!」
  とうとう山田看護師が座りこんで泣き出す事態になって、文佳は堪忍袋の緒を切った。
「先生! どならないでください! 私がやりますから、先生は手術に集中してください! そんなに当たり散らしたら、内臓でも血管でも切り損ねてしまいますよ」
  手術室は静まり返った。 若い助手も看護師も、いっせいに首をちぢめた。
  金縁眼鏡の陰からきらっと目を光らせて、《冷血》は言った。
「ミスばかりする看護師は、ここでは必要ない」
  回り中ふるえあがった。 負けずに見返したのは、文佳だけだった。
  《冷血》を怒らせたからには、神堂看護師は当院に長くはいられない、と周囲はささやきあった。  《冷血》は腕がいいだけではなく、コネもあったのだ。 彼は院長の娘と付き合っていて、 もうじき婚約発表をするだろうと、もっぱらの噂だった。
「気の毒にねえ。 《冷血》と結婚させられるなんて」
「政略結婚もいいところよねえ。 でも《冷血》がこの病院の次期院長だなんて、私、辞めたい!」
「私も!」
  というわけだった。
  彼が家で朝食の支度を引き受けていたというのは驚きだ、と文佳は思った。 そして、《冷血》が エプロンをかけている姿を想像して、思わず吹き出してしまった。
  だが、笑っている場合ではないのだった。 宏医師は文佳を嫌っている。 武医師は見た目通り やさしそうだが、宏のおかげで文佳のここでの生活は針のむしろになりそうな気配だった。
  しかたがない、少々のことは我慢しよう、と文佳は決意した。 ここを出たら暮らしていけない。  少なくとも、生後一年ぐらいは手塩にかけて赤ん坊を育てたいし。 昇の戻ってきたときのことは、 考えたくなかった。


  荷物を運び入れた後、文佳は自発的に医院の掃除を始めた。 診察室の方はもともといた看護師が やるので、母屋と庭だ。 家は、男ばかりにしては割ときれいだったが、庭は相当荒れていた。
  これからは食事もみな作る、と文佳が言ったので、武は大喜びだった。 昼食は、看護師の岬敦子も入って、楽しいものになった。 しかし、宏が戻ってきた後の夕食は、まるでお通夜だった。
  野菜のてんぷらと、焼き魚と、豆腐の味噌汁。 武に合わせて純日本食を出すと、思ったとおり、武はにこにこして喜んだ。
「こりゃすごい。 家庭の味だ」
  宏は、最初から最後まで完全に無言だった。 黙ってテーブルに座り、黙々と食べるその姿は、吸血鬼ばりのすごい圧迫感で、お代わりは? と訊く勇気は、さすがの文佳にも出せなかった。


  一番困るのは風呂場だった。 何と開き戸で、鍵がかからないのだ。
 その夜さっそく、困った事態になった。 10時過ぎて、もう男連中は二人とも入っただろうと思った文佳が、パジャマとタオルを手に脱衣所に入ると、ちょうど宏が上がってくるのと鉢合わせしてしまった。
「あっ、ごめんなさい」
  男の裸など見慣れているが、相手が患者ではないとなると、やはり狼狽する。 あわてて廊下を逃げながら、文佳はふと思った。 眼鏡を取った《冷血》の顔は、まるで別人だわ、と。


 翌日、また当惑する事態が待ち受けていた。 朝からカラッと晴れたので、洗濯を始めた文佳は、まず武医師の部屋に行って、シーツと枕カバー、それにパジャマを出してもらった。
「他にもありますか? 下着でも何でも洗いますよ」
  武医師は、にこにこしながら文佳にいろいろ渡した。 しかし、武医師に呼びかける文佳のよく響く 声が聞こえているだろうに、宏は通勤支度中の部屋から出てこなかった。
  とうとう文佳は、廊下をわざと足音をさせて、宏の部屋の前まで行った。 古い家なので、そこも日本間で、廊下との仕切りは襖になっていた。
「坂下先生、洗濯物を出してください」
  どうしてもタンカを切る口調になってしまう。 それでも返事がないので、文佳は平手で軽く襖を叩いた。
「坂下先生!」
  とたんに襖が開き、コート姿に金縁眼鏡の完全武装した宏が出てきた。 彼は昇とちがって背が高い。 ぬっと現れると迫力たっぷりで、強気の文佳も一歩退いた。
「あの、先生……」
「洗濯はコインランドリーでします」
  鞄の他に大きな紙袋を持って、宏は大股で廊下を歩いていった。 その後ろ姿に、文佳は思いっきりしかめ面をした。
「バーカ」


 夜の7時に電話があった。 岬看護師が取ると、宏からで、外で食事するから夕食は要らないと言ってきた。 文佳はほっとした。
  その晩はおでんにした。 文佳と二人で食べながら、武医師が言った。
「あわれなもんだ。 こんなおいしい物を食べそこねて、長ったらしい名前の外国料理を食わされて」
  どうやら宏のことらしい。 文佳は知らん顔していたが、武医師はおもしろそうに話しつづけた。
「朋子さんに誘われるから、3回に1回は断りきれない。 あいつ困ってね」
  3回に1回? 文佳はちょっと意外な気がした。 婚約同然の間柄なら、もっとサービスすべきなのに。
「れ……じゃない、宏先生の方から誘わないんですか?」
「宏が? そりゃできんだろう。 あいつはすごい恥ずかしがりだから」
  文佳は危うく、口に入れたはんぺんを噴き出すところだった。 坂下宏が恥ずかしがり!  あの超人的無愛想を、そんなに好意的に解釈してくれるのは、実の親ぐらいのものだ。


 11時も過ぎて、家の電気が消された後、文佳が洗いたてのシーツの上で楽しくごろごろしていると、庭でかすかな声が聞こえた。
  最初は空耳かと思った。 だが、声は次第に大きくなり、やがて金属がすれ合うような不快な音に変わってきたので、しかたなく起き出してガウンをはおり、廊下から庭に出た。
  貧相な植え込みの裏でもがいているものがあった。 街灯のぼんやりした光で見ると、薄い色の猫らしかった。 隣家との境界線になっている低い板塀にあいた穴に、哀れにも引っかかっている。  文佳はすぐに手を伸ばし、小さな肩を持って破れ目から外してやった。
  まだ大人になりきっていない猫は、逃げようとせず、文佳の胸によじ登って、甘えた声で鳴いた。  しゃがみこんだまま、文佳はチビ猫に小声で話しかけた。
「ノラ? ちがうよね。 こんなかわいい首輪してるもんね。
 いいね、おうちがあって。 おねえさんにはないんだよ。 あったかいおうちが欲しくて、あの人と付き合ったのにね」
  そのとき、ふと背筋に悪寒が走った。 猫を抱いたまま首を回すと、鉄の門扉の前に黒い影が立っていた。 文佳はあわてて立ち上がった。
  見られたのを知った影は、ギイッと鈍い音と共に扉をあけて入ってきた。 それは、疲れた表情の宏だった。
「あ、お帰りなさい」
  やばい、さっきの泣き言、聞かれたかな・・・・きまり悪い思いで、それでも一応文佳は挨拶した。  宏は何も言わず、ちょっと頭を下げると、静かに玄関に入っていった。
  猫を下ろして部屋に入りながら、文佳は独り言を言った。
「ほんっとに無愛想なやつ」



  数日経って、看護師の岬敦子が遠慮しいしい武医師に切り出した。
「あのね、先生。 私、結婚が決まりました」
「それはおめでとう」
「ええ、ありがとうございます。 でも、ちょっと……」
  後は小声になったので、台所にいた文佳には聞こえなかったが、夕食のときに事情がわかった。  岬の婚約者が京都に転勤になるので、今すぐついていきたいというのだ。
「すぐと言われても、今の看護師不足では、なかなか後継者が……」
  文佳が、ぱっと肉じゃがから顔を上げた。
「私、お手伝いします」
  武医師はびくっとなった。 神堂文佳といえば、秋吉河原総合病院でも評判の名看護師だと聞いた。  なぜ女医にならずに看護師で満足したのだろうといわれていたそうだ。 だが、昇の婚約者だ というばかりが頭に入っていた武医師は、灯台下暗しで、文佳が立派な看護師だということを 失念していたのだ。
「そう……そうだったね。 あんたは秋吉河原で医者たちに引っぱりだこのナースだったね。  辞めるときはさぞ引き止められただろう」
  そうでもなかった、と文佳は寂しくなった。 ナース長は待ってましたという態度だったし、事務長も、奥歯に物が挟まったような物言いで、ほとんど慰留してくれなかった。 ただ、看護師たちは大騒ぎだった。 一緒に辞めようとまで言ってくれる若手も何人かいた。
  文佳はちらっと宏の方を見たが、彼はまったく聞いていないような態度で、ときどきテレビの野球中継に目をやりながら食事していた。

 
  やりなれた仕事が戻ってきたので、文佳は毎日が楽しくなりはじめた。 初め思っていたほど宏は邪魔にならないし、武医師はおだやかで、動物と子供を心から愛する老紳士だ。 勇気をふりしぼってここへ来てよかった、と文佳は思い始めていた。


 近くの小学校で健康診断が行なわれるので、文佳も助手としてついていくことになった。
   ところがもう一人、医者が必要だという。
「たしか去年は息子さんとご一緒でしたよね。 一人だと時間がかかりすぎて、授業がとどこおるんです」
  電話でそう言われて、困った武医師は、たまたま非番だった宏に泣きついた。
「なあ、宏、昇の代わりに行ってくれんかなあ。 最近少し目がかすむし、元気な子供4百人も診るのは疲れるんだ」
  自室でゆっくり新聞を読んでいた宏は眉を寄せたが、溜め息をひとつついて立ち上がった。


  文佳が手早く準備をして、広く明るい保健室で診察が始まった。 どやどやと戸口から入ってきた子供たちは、少し離れて椅子に座った二人の医師を見て、ずらっと武医師の方に並んでしまった。  宏の方にはほんの5,6人だ。 それを見て、文佳は笑いを噛みころした。
  気を遣った先生が列の人数をならしてくれた。宏は、なんだか腰が引けている子供たちを手際よく診ててきぱきと記入していった。 それから、さりげなく眼鏡を外して机に置いた。
   文佳ははっとした。 眼鏡なしで、どうやって細かい字を書くつもりなのだろう。


  またがやがやと話し声がして、別の組の子供たちが入ってきた。 今度は二人の医師の前にできた列は、ほとんど同じ長さになった。 特に女子は、半分以上宏の前に並んだ!
  まったく無表情で、宏は機械のように正確に診察を続けた。 見えにくいような動作はどこにもない。 武医師を手伝いながら、宏をちらちらと眺めて、文佳は確信した。 坂下宏医師は近眼でも乱視でも遠視でもないのだ!
  何だ、ダテ眼鏡だったんだ・・・あの嫌味そのものの金縁眼鏡の正体を知って、文佳は拍子抜けした。 そこまで格好つける必要があるのだろうか。 あんなきれいな眼を、わざわざ隠してまで。


 
 2月になった。 みぞれの降る寒い朝、武医師は文佳を伴って往診に出かけた。 その帰路、彼は車の中で咳き込みはじめた。 顔色も悪い。 心配した文佳が運転を代わった。
「秋吉河原に行きましょう、先生」
「そんな大げさなこと、しないでいいよ、文佳さん」
「いいえ」
  これはおおごとだ、と文佳は直感していた。 おそらく心臓発作の前触れだ。 ひどくならないうち に診察してもらわなければ。


  文佳の判断は的確だった。 非常に寒い日だったので、ぐずぐずしていたら狭心症の発作で救急車を呼ぶことになったと、担当医に言われた。
「さすが神堂くんだ。 よくやったよ。 大先生を倒れさせたら、宏先生が大変だ」
  さいわい体調はすぐ元に戻るということだったが、用心のため、その晩は入院することになった。  急いで医院に取って返して、身の回りの品を用意してきた文佳は、病院の廊下でナース長とばったり出会った。 ナース長は奇妙な表情で文佳を見た。
「神堂さん、あなた坂下医院で働いているんですって?」
「はい」
「住み込みで?」
「ええ」
  ナース長の眼が鋭くなった。
「あそこは男の人ばっかりの家でしょう?」
  なんていやらしい想像を! ・・・文佳はかっとなって、思わず言った。
「私は昇先生の婚約者としてあそこに入ったんです」
  そして、あっけに取られているナース長を置き去りにして、病室に急いだ。


  夕方、文佳は疲れきって医院に戻ってきた。 そして、《本日都合により休診》の札を掲げると、自室に転がり込むように入って、畳に横たわった。
  あんなこと口走って、よかったんだろうか・・・ 本人の了解も取らずに婚約者と公言してしまった 自分を、文佳はひどく惨めに感じていた。 愛されてなんかいないのに。 南米まで逃げ出され てしまったのに!


  そのまま、いつの間にか眠りに落ちてしまったらしい。 目を覚ますと、部屋は真っ暗だった。
  茶の間から明かりが庭に漏れていた。 そうだ、《冷血》は帰ってきてるんだ・・・・大いに気を滅入 らせながら、文佳は電気をつけて身なりを整え、廊下を歩いていった。
  茶の間では、自分で作ったのだろう、宏がうどんをすすっていた。 文佳は元気なく言った。
「おかえりなさい。 すみません、うたた寝してしまって」
  箸を置くと、宏が言った。
「こちらこそ悪かったと思っています。 脳切開の手術があって手が離せなくて、父の世話をみんな神堂さんに押しつけてしまって。 父が危険なことにならなかったのは、神堂さんのおかげです。 感謝しています」
  文佳は腰を抜かしそうになった。 これが、この殊勝なせりふが、本当にあの《冷血》の口から出たものなのか! あまりのことに、文佳はしどろもどろになってしまった。
「いえ、あの…ほんとにたいしたことにならなくて……」
「何か食べましたか?」
「え……?」
  宏はゆっくり立ち上がった。
「昼は食事しましたか?」
  考えてみると、忙しくてそれどころではなかった。
「いえ……」
「じゃ、これ食べてください。 うまかないけど、あったかいですよ」
  なかなかちゃんとしたキツネうどんだった。 おおざっぱだが、ネギも刻んである。 
「ありがとうございます」
  小声で言って、文佳は頼りない気分で食べ始めた。 たしかに熱いし、味も悪くなかった。
  「おいしい……」
  そのときだった。《冷血》の頬がゆるみ、微笑が浮かんだ!!
  文佳の手から箸が落ちた。 今日は何て異様なことばかり起きる一日なんだ!  《冷血》が微笑みかけてくるなんて、真夏の雪だ。 宇宙人の来襲だ!
  しかも宏は、いつものように早々に茶の間を出ていこうとはしなかった。 父が入院しているので 心細いのか、また椅子に座りなおして、文佳が食べるのを見守っていた。
  これでは食べにくくてしかたがない。 文佳は、気詰まりでうどんが喉につかえるのを防ぐために、 宏に話しかけないわけにいかなくなった。
「榊原先生は武先生の容体を何と?」
「軽い心筋梗塞の前期症状で、たいしたことはないが、無理は禁物だと」
  やっぱりそうだった・・・・自分の見立てが正しかったので、文佳は密かに誇らしかった。
   気がつくと、宏がじっと顔を見ていた。
  「医者の不養生ってほんとですね。 自分のことだと軽くみてしまって。
  ところで、どうして神堂さんは医者にならなかったんですか? そのほうが向いていたんじゃないかな」
  虚を突かれて、文佳は視線を落とした。
「両親とも医者なんです。 札幌で開業してます。 でも二人とも見栄っぱりで、特に母のほうが上流社会にあこがれてて、私を医科大学に入れたときに、大病院の息子をつかまえてきなさいよって言ったんです。 私も生意気だったから、反発して喧嘩になって、学費止められちゃって、バイトと奨学金でナースになりました。 それ以来、勘当同然」


  沈黙が落ちた。 あっ、これ言っちゃ当てつけっぽくていけなかったのかな、と文佳は後悔した。 宏が病院長の長女である朋子と噂になっているのを、文佳は思い出したのだ。
  宏は静かに立ち上がった。
「うどん、さめますよ」
  手がお留守になっていたことに気づいて、文佳は急いで食べ出した。
「風呂わいてるので、入ってください」
  そういい残すと、宏は茶の間を出て行った。


 翌朝、手早く朝食の後片付けをしながら、文佳は首をかしげていた。 昨夜の会話は幻だったのだろうか。 いっとき、気持ちがいくらか通ったように思えたのだが、今朝の宏は前以上に表情が硬く、さっと朝食を食べて、風のように出ていってしまった。 やはり札幌の両親の打ち明け話が悪かったのだろうか、と文佳は落ちこんだ。
  それから、ふと気がついた。 何も《冷血》の機嫌が悪いからといって、今さら気にすることはないはずだ。 これまでも、ずっとそうだったじゃないか。
  やだな、頼りになる武先生がいないと気が弱くなっちゃって、と文佳は溜め息を漏らした。


 その日もやむなく休診となった。 文佳は秋吉河原総合病院に行き、武先生を見舞った。
  廊下ですれちがう若手ナースはみんな声をかけてきた。 ベテランの中には好奇の視線を向 ける者がいたが、気にしないようにした。 坂下昇のいいなずけ、というのはまるっきりの嘘で はない。 武先生が息子の未来の妻と認めているのだから。
「検査のため、明日まで入院してもらいます」
  ということで、文佳はまた一人で医院に帰ってきた。
  今日は居眠りすることもなく、シチューを作って待っていると、8時きっかりに宏が帰宅した。
「おかえりなさい」
「ただいま」
  そのとき、玄関に備え付けの電話が鳴った。
  二人は同時にはっとした。 もし武医師が急変したのだったら…。
  さっと顔を見合わせると、二人は電話に急いだ。 一瞬譲り合い、それから思い切って宏が 受話器を取った。
「……坂下です」
  相手の声を聞いて、宏の肩の力が抜けた。
「はい、僕です。 朋ちゃん? なに? あ……通じないって? 電池切れだ、この携帯……。
  うん……うん……悪いけど、今夜は疲れてるんだ。 そうじゃないけど、親父の入院とかいろいろ あって……悪い、また今度。 うん……じゃ、お休み」
  病院長の娘だ・・・・文佳もほっとすると同時に拍子抜けした。
「よかった。 武先生のことじゃなくて」

  二人は、玄関脇の電話のそばに、身を寄せ合って立っていた。 お互いの体温が感じられるくらいに近く、整髪料と消毒剤がかすかに入り混じった匂いが文佳の鼻を打った。
  宏はうなずき、眼鏡を取って、閉じた目を手でこすった。
「丈夫が取り得の父だったから、こうなると逆に心配で……やっぱり年なのかな」
「はやく暖かくなるといいのに」
  強く目をこすった反動で、手から眼鏡がすべり落ちた。 あわてて受け止めようとした宏の手が、同時に同じことをしようとした文佳の指に触れた。
  不意に、目には見えない、電気のようなものが走った。 ふたりは手を重ねたまま、じっとしていた。 なぜ動かないのか、動けないのか、わからないまま。
  文佳はぼんやりとなった。 かすかに周りが揺れ動くような気がする。 ゆっくり顔を上げると、宏の視線がじっとそそがれていた。
  ふたりは見つめ合った。 柔らかい照明の光と影の中で、お互いの瞳の中を、まばたきを忘れて見入った。
  そして徐々に宏の体が傾き、長い睫毛が文佳に近づいてきた。 顔を仰向けたまま、文佳はじっとしていた。
  やがて自然に瞼が閉じた。 かすかな吐息とともに、唇が文佳の唇に降りてきた。
  文佳の全身が、柔らかな熱に包まれた。 まるで雲に乗ってただよっているような気持ちだった。  ゆっくりと揺れて流されていく。 どこまでも、どこまでも……
  唇が束の間離れ、また重なった。 ふたりは両腕をお互いの体にからませ、固く抱き合っていた。
 口づけは次第に長くなり、情熱を増した。 もう立っていられない。 文佳の体から力が抜け落ちていった。


  そのとき、玄関のベルが鳴った。
  ふたりは顔を離したが、まだぼうっとなったままで、なかなか抱擁を解くことができなかった。
  ベルがまた鳴った。 文佳はかすれた声で返事をした。
「はい」
  とたんに魔法が解けた。 ふたりは離れ、文佳はよろめく足を踏みしめながら、玄関に下りてドアを開けた。


  そこに立っていたのは、坂下昇だった。



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