聖エラスムスの火 24
マオは伸び上がって周囲を探した。 わざわざあの木の陰に引き返してみたりもした。 だが井上の姿は、まったく見当たらなかった。 そのうち大粒の雨が落ちてきたので、マオはやむなく、ヨウちゃんに促されてバスに乗った。
「ほんとに彼だったの? 幻見たんじゃないの?」
ヨウちゃんは何度も首をひねって、なかなか信じようとしなかった。
「マオが俺のほうへ歩いてきてすぐベンチが目に入ったけど、誰もいなかったよ。 3秒か4秒の間にどこへ行けるのさ」
もしかしたらまた木の陰に姿を隠し、そこからこっそり去っていったのかも、とマオは推測した。 やはり井上さんには何か後ろ暗いことがあるのだ。 マオの知り合いにも姿を見せられないような何かが。
あんなに疲れきって弱っていたのに…… もやもやを抱え、それでも会えた嬉しさでまだ動悸を残しながら、マオはヨウちゃんとマンションに戻った。
リビングに入ると、待ちかねていたライリーがソファーの上でだだをこねた。
「何よー、遅い!」
「すぐ昼食にしますね」
テーブルの横を通って、着替えのために自室に入ろうとしたマオは、テレビの前に紙くずが沢山落ちているのに気付いた。 どうもライリーが退屈まぎれに新聞を千切って丸め、画面に投げつけていたらしい。
マオが身をかがめて拾っていると、ライリーが文句を言った。
「見えない!」
慌ててテレビの前からどいたマオに、彼が尋ねてきた。
「ね、どう思う? この男と、うちのヨウちゃん、どっちが美形?」
しかたなく、マオはちらっと画面を覗いた。 ライトグレーのコートを着流した背の高い男が、レポーターのインタビューに応じていた。
ためらいなく、マオは答えた。
「ヨウさん」
へっへっと、満足そうにライリーは笑った。
「天下の結城誠也も、マオにかかっちゃ形無しね」
「この人に紙ぶつけてたんですか?」
「違うよ。 その前のニュースに出てた政治家。 この子はどっちかというとわたしは好きよ」
「ヨウさんに怒られますよ」
「気にしないわよ、ヨウちゃんは。 誠也は全然ホモっ気ないもの。 一目でわかる」
何か信号でも出ているのだろうか。 マオはもう一度画面を見たが、すでにインタビューは終わっていた。
着替えもそこそこに、マオは井上にメールを入れた。
『会えてよかった! でも元気がなくて心配です。 病気だったんですか?
私は今、メーキャップアーティストのライリー丘さんのところに弟子入りしています。 同郷なので、特別に許可してもらいました。 さっき迎えに来た男の人は、丘さんの助手です。
まだ何もできないけど、頑張って一人前の美容師になります』
それから慌しくエプロンをかけてリビングに出ていくと、男ふたりが相変わらずべたべたしていた。
「うん、そこじゃない、もうちょっと下」
「ここ?」
「もう少し左、そうそう! いい気持ち」
ライリーの背中にヨウちゃんが長い手を突っこんで掻いている。 ライリーは育ちすぎた猫のように目を細めてソファーにもたれていた。
「お昼、何にします?」
マオが訊くと、ライリーはちょっと考えて、
「スパゲッティ・ミートソース」
と言った。 ふたりはマオが来て以来、すっかり家庭料理づいてしまい、ほぼ毎日マオの手料理を楽しみにしていた。
「ヨウさんは?」
「右に同じ!」
「じゃ、3人ともスパゲティにしますね」
半時間ほどで、手際よく作ったパスタにブロッコリとイタリアンパセリのサラダを添えて出すと、1口食べてみて、ライリーが大げさに褒めた。
「ほんと至福の味よね。 マオはどこでこんなに上手になったの?」
「やっぱバイトですかね。 多いときは飲食店3軒掛け持ちしてたから」
「このドレッシングなんか最高! そうだこの間モデルのミキがさ、浅草のどっかですごいオリーブオイル売ってるって言ってたからさ、今度店教えてもらうわ。 それで作ったらもっとおいしくなるかも」
「そうですね」
ライリーをたっぷり喜ばせて技術を気持ちよく教えてもらわなければならない。 マオは料理にも真剣だった。
その夜は久しぶりにオフだったので、ライリーはご機嫌で、食後にCDをかけてヨウちゃんと踊りだした。
スローなブルースのときはなかなかムーディーでよかったのだが、次にアップテンポなジルバをかけると混乱が始まった。 どちらも一応男性としてダンスを覚えたらしく、同時にリードを取ってしまうのだ。 男役、女役と目まぐるしく入れ替わるので、マオは可笑しくて目に涙が溜まった。
結局背の高いヨウちゃんがライリーを強引に抱きかかえ、派手なポーズを取って曲は終わった。 思い出し笑いをしているマオに、ライリーが呼びかけた。
「ちょうどいい機会よ。 あんたもダンス覚えなさい。 こういう仕事してるとパーティーなんかに招かれるチャンスが多いからさ、踊れるといろいろ得なのよ。 情報仕入れるときなんかもね」
ヨウちゃんが簡単なステップを教えてくれることになって、マオはおっかなびっくり足を踏み出した。
「そうそう。 こう足を引いて、こっちにターン。 そうよ。 あんた落ち着いてるから足踏まないじゃない? いいよね、そう」
教えてもらったのはチャチャチャだった。 これとワルツを知っていれば応用がきくのだそうだ。
「前、後ろ。 そう、リズム勘いいよ」
「ヨウさんの教え方がうまいから」
お世辞ではなく、心からそう思った。 同性しか愛せない2人だから、どちらと抱き合っていても何の心配もない。 この奇妙な同居生活を、マオは楽しみ始めていた。
午後遅くなってから自室に入って、マオは真っ先に携帯を確かめた。 ちゃんと返信が来ていた。
『安心した。
俺はもう直ったから大丈夫だ。
新しい職場で、がんばれ!
井』
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